シナイ・イスラム人民共和国

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概要

シナイ半島の全域を支配している中東の新生国。 1984年12月4日に ソビエト連邦やアラブ諸国の支援・支持の元でエジプト共和国から独立した。 現在の国家体制は社会主義市場経済制であり人民党による一党独裁体制下にある。一党独裁体制ではあるが、議会の並存や人民党員及び大統領の任期を有限化した事。また、国民の選挙によって党員を選出する事で民主主義を保証している。 建国からソ連崩壊までの数年間は中東一謎と闇の深い国家であったが、2000年代の民主化民主化を経て情報の開示が進んだ。 現在では、それまでの閉ざされた外交を反省し、「開かれた外交」を目標に掲げ、最近では架空国家機構(FSO)加盟など国際的な協調外交路線を歩んでいる。

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国旗と国章

シナイ国章
シナイ国旗



国旗 国旗は上からから順に緑→白→黒→白→赤色の計4色の縦線が入っている。緑はシナイの自然、白はシナイの正義、黒は石油、赤は独立を勝ち取るために払った血と社会主義を表している。真ん中の月と星のマークはイスラム教を表している。
国章 国章は国鳥である鷲が大きく描かれている。真ん中には菱形の盾があり、これは軍を意味している。また、盾にはシナイ国旗が描かれている。鷲の下のアラビア語は国の標語である「国家は民の為に、民は国家の為に」という言葉が刻まれている。

詳細

正式名称 シナイ・イスラム人民共和国
国の標語 国家は民の為に!民は国家の為に!
略称 シナイ/東スエズ/シor志(日本語)/西(中国語)
気候 乾燥帯砂漠気候
国家体制 人民党一党独裁体制による社会主義共和国体制
議会制度 人民院(党院)と軍議員(軍院)からなる二院制議会制度を採用
経済体制 社会主義市場経済
国家元首 アフマド・ラムズィ大統領兼人民党党首
副大統領 モハメッド・マリクシャー副大統領
首相 イシュメール・ビンラディン
国土面積 約60,000㎢
人工 約2,480万6000人
国内総生産(GDP) 461億9600万ドル(推定)
1人当たりのGDP 1862.4ドル(推定)
国歌 「我が祖国」
宗教 イスラム教スンニ派
時間帯 UTC+2
通貨 シナイディナール (現1シナイディナール=6.72円)

シナイの民族構成

アラブ系 クルド系 ユダヤ系 トルコ系 ギリシア系 その他
80% 6% 5% 2% 2% 2%

アラブ人が民族の大半を占めている。近年ではクルドやトルコ系の移民が増えて来ている。またユダヤ系もクルド、トルコ系に抜かれては居るが、古くから一定数国内に存在している。ギリシア系の人々も昔から存在していた。ギリシア、ユダヤ系双方共に少数派であるが、ムスリムに改宗した物のみ国民に分類した。その他は主にペルシア系等の人々である。余談だがユダヤ系ギリシア系の多くはユダヤ教、キリスト教を信仰しており、政府はイスラム教を主に信仰している国民への配慮として異教徒の帰化には厳し目な態度を取っていて、これらの民族の移民の受け入れを制限している。政府は他宗教とも可能な限り寛容に接するように国民に働きかけているが、差別や偏見が横行しいる現状がある。

シナイの地理

シナイは乾燥帯砂漠気候に属している。北西部の極一部の地域は比較的肥沃な土壌を誇るが、それ以外は砂漠地帯である。また南部は山岳地帯になっていて、中でもシナイ山はユダヤ教にとっても聖地的側面の強い場所となっており、ユダヤ教徒相手の観光業が盛んである。南西部は産油地帯となっており、シナイの主要産業の源泉となっている。話はシナイ山や油田から国内の自然と食の話に映るが、シナイは農耕には不向きな土地が多く農産品の輸入依存率が高いと言う問題点を抱えている。その反面、食料保存技術が同規模の他国と比べ比較的進んでいる。野菜類は中国やロシア、東欧諸国等から輸多くを輸入している。肉類は宗教的事情から中東諸国から多く輸入しているが、ある程度は時給出来ており、野菜類ほど深刻ではない。 また、我が国はスエズ運河を隔てて西にエジプトと、北部でパレスチナ及びイスラエル、またアカバ湾を挟んでサウジアラビアと国境に面している。軍事上特にエジプトとイスラエルが我が国の対外的脅威と言える。独立初期はイスラエルの方が敵対関係にあったが、現在は比較的落ち着いた関係化にあり、チラン島を巡る領土問題や潜水艦事件、石油とスエズ運河の利権問題など特にエジプトとの対立が深刻化している。そのほか、東部でもイスラム過激派や独立州である東シナイ民主共和国と内戦状態にあり、不安定な情勢が続いた。現在では統合軍主体の人質作戦により両勢力を排除したものの未だ平和とは程遠い状況下にある。

シナイの歴史

古代史 古代エジプトは、シナイ半島を経由してパレスチナやシリア方面に進出したり、逆に侵入を受けたりした。

出エジプト後ヘブライ人らはシナイ半島へ渡り、モーセがシナイ山で十戒を授かったとされる。シナイ山(ガバル・ムーサ)の麓には、337年にコンスタンティヌス帝の母ヘレナによって創建された聖カトリーナ修道院がある。

古代におけるローマ帝国、東ローマ帝国の領土を経て、中世から近世にかけてウマイヤ朝、アッバース朝、ファーティマ朝、アイユーブ朝、マムルーク朝、オスマン帝国と興亡するイスラム王朝の領域へと次々と移り変わっていった。

近世 17世紀に入りオスマン帝国に陰りが見え始めると、オスマン帝国から独立したムハンマド・アリーによるムハンマド・アリー朝の支配下に置かれた。19世紀から20世紀半ばにかけてはエジプト全土とともにイギリスの勢力圏となり、1869年には西側にスエズ運河が建設された。

第二次大戦から中東戦争 第二次世界大戦後は繰り返し中東戦争の戦場となった。第一次中東戦争(1948~49年)では、イスラエルを攻撃するエジプト軍が策源地として利用した。1952年にエジプト革命が起きると、そのままエジプト・アラブ共和国の領土となった。第二次中東戦争(1956~57年)ではイスラエルがほぼ全域を制圧したが、米ソの介入で撤退。第三次中東戦争(1967年)で再びイスラエルに占領され、第四次中東戦争(1973年)でも戦場となった。1978年のキャンプ・デービッド合意によりエジプトへ返還されることとなり、1980年に完全にエジプトに返還された。(ここまではwikiのコピペw) しかしながらエジプトからしてみればイスラエルやアメリカと手を組んだ事は他のアラブ諸国からすると裏切り行為以外の何物でもなく、中東国際社会におけるエジプトの権威の失墜を招いている。

高まるシナイ人の反エジプト感情 エジプトの権威が失われた事になったこの原因はサダト大統領にあると見られるようになっていくと彼の国際的な支持率は次第に低下し次第に国内外の過激派組織に裏切り者と見なされて命を狙われるようになっていく。そして1981年にサダト大統領がイスラム過激派組織ジハード団によって暗殺されると、後任のムバーラク大統領による開発独裁的な新政権が誕生した。この政権の元でエジプトの都市部は飛躍的な発展を遂げていく事になった。だが当時のシナイ半島はせいぜいリゾート地が数カ所と小さな田舎町が有るだけの何もない状況のままであった。都市部とは置いてけぼりにされる形で日増しに経済格差が広がっていくものの政府はこの地に希望を見出す事はせず、次第に貧富の差も生んでいった。この地の人口は少なかったので貧しい人々の声は少数者の意見として切り捨てて旧エジプト政府は何の開発どころか打開策の検討すら行わなかった。それどころかこの地で行われるイスラム原理主義的運動を如何に封じ込めるかに重きを起き、徹底的に弾圧した。このためシナイに住む人々は旧政府に対し失望を抱くと共に現エジプト人との軋轢は日増しに高まっていった。こうしてシナイ労働者党やシナイ・ムスリム評議会を中心に反政府運動や社会主義的運動が次第に激しくなっていったが、新政権はこれも厳しく取り締まった。(この二つの組織は超重要でテストに出るから覚えといてね!)

荒れる中東情勢と独立への流れ

レバノン侵攻とエジプト権威の失墜

そんな中、1982年についにシナイに独立の天気が訪れる。切っ掛けはイスラエルによるレバノン侵攻だった。中東でのイラン=イラク戦争やフォークランド紛争等で国際社会のパレスチナへの関心が薄れた隙を狙い、レバノン侵攻という強硬策に転じた。これに対してアラブ諸国は猛抗議を行い中東諸国は反イスラエル一色に染まった。その頃、イスラエルと一応の協調を保っていたエジプトも他のアラブ諸国と同じくイスラエルのベギンを激しく非難、軍事介入を仄めかした。実際エジプトはこの政策に対して一切軍事的な介入をしなかったがエジプト軍の3分の1がシナイ半島に展開し本格的なイスラエルとの戦闘に備えた。しかし、先程言ったようにエジプトによる軍事介入は全く行われなかったのである。恐らくこれはイスラエルの暴挙に対し口先だけでも抵抗を示す事でエジプトがアラブ連合崩壊後も未だアラブの盟主たる資質を持っている事を誇示し、周辺のアラブ諸国との冷え切った関係を改善を図る狙いがあったと見られている。ただエジプトは自国の警戒のためにシナイ半島に軍を展開させた以外には軍事的な動きは全く見せず口先だけの効果の薄い非難と脅しを続けた。しかもエジプトの軍事介入が米ソによって自粛を促されると、いよいよ口すらも開かなくなった。これに対してエジプトは更に周辺のアラブ諸国から軽蔑と憎しみの眼差しで見られる事になり、エジプトへの信頼や期待、権威は影も形もなくなり、周辺諸国まで逆に反エジプト感情を過去最悪レベルにまで高めるという最悪の結果に終わった。

エジプト危機からシナイ方面軍離反蜂起へ

エジプトの権威がチャレンジャー海淵並みのどん底に陥る中、ジハード団を始めとするイスラム過激派組織は「裏切り者を許すな」としてエジプト各地でテロを起こし、国内の治安も漏れなくどん底に陥った。そして日を待たずにして「エジプト同時多発テロ事件(エジプト危機)」が起こった。複数の過激派組織が国内にて飛行機のハイジャックや銃の乱射、爆破テロ、挙げ句の果てには国会議事堂を占拠するという大騒動が起こった。これに対して特殊部隊を投入して解決を促すも即時解決を狙ったため、どの対テロ作戦も非常にお粗末な内容で軍隊からも多くの犠牲者を出し、なんとか対イスラエル以外の国内の軍をかき集めて事態の収拾を図ったがエジプト軍の能力の低さを露見する結果となった。「やめてあげて、エジプトのライフはもうゼロよ!」という感じだがこれに対してムバーラク大統領は激怒し、軍隊の再編成を命じた。独裁的で自分の周りにイエスマンしか置いていなかったからか、軍部はこれを最悪な形で実行に移してしまう。軍の再編しただけでなく幹部階級の人間を軒並みクビにし、末端の一兵士まで生活出来ない様な減俸を行なったのだ。特に都市部のテロの収拾に加担しなかったシナイ方面軍の懲罰は過酷を極めた。そして彼らは祖国に対してさらなる失望と怒りを覚え、やがて独立への引き金となった「反埃シナイ全軍蜂起事件(シナイ方面軍蜂起事件)」が起き、「エジプト離反宣言」により旧政府エジプトと新政府であるシナイによる「シナイ独立戦争」に発展していく事になる。(「」内のワードはすごく重要だからこれも覚えといて)

シナイ独立戦争

こうやってシナイ方面軍が蜂起して、激烈な弾圧を受けながらもイスラム原理主義運動や反政府運動(独立運動)を行なっていた。シナイ・イスラム人民党(シナイ人の反エジプトの辺りで出てきた「シナイ労働者党」と「シナイムスリム評議会」が統合し成立)の指揮下に入り、本国政府の統制の不支持を表明した。そして人民党を率いるハサン・アッサラーム・ライードを国家主席とし、1983年6月15日にシナイ・イスラム人民共和国の国家宣言(エジプト離反宣言)を表明し、晴れて国家として成立... しません!!エジプトは当初これを全く受け入れず、シナイ政府を潰すべく侵攻を開始。これに対して我が国はエジプトによる一方的な主権の侵害と見なして防衛を行い、これがシナイの国の威信をかけたシナイ独立戦争へと発展していく事になります。 ただこれはエジプトにとっては最悪のタイミングでした。まず国際的な権威が喪失していた為多くのアラブ諸国からはエジプトよりシナイの方がより多くの期待を寄せてい事、これによりシナイを国際承認流れがする出来上がっていました。また英仏もシナイを承認し独立させた上で新たな政策に乗り出そうしていました。

(これに関しては後々詳しく説明します。) 中東以外の外交においてもこの時期はソ連と疎遠になっていく過程でアメリカとの関わりが強くなってくる途中の時期でした。ソ連はエジプト軍の自国製装備がアメリカ製の物にどんどん置き換わっていくの見てエジプトよりシナイ側に付いた方が利益が大きいと判断し、シナイ側につき小銃から軍艦にいたるまで多くの兵器を貸し付けて、これを支援しました。シナイ側も戦争に大量の武器や兵器が必要だった事、ソ連は逆に軍事費の高騰が経済に追いつかなくなり、旧式兵器の在庫処分を行い少しでも軍事費を抑える必要性があったのでシナイにとってソビエトはその後も大きな後ろ盾となっていきます。一方エジプトはアメリカとの関係に力を入れたものの、アメリカは対イランやイラクの監視等に重点を置いていたため大規模な支援を取り付けるに至らず、次第にエジプト軍は不利になっていきます。また軍の再編も兵士の士気を著しく下げてしまっていて、国民に関しても戦争に消極的になっていました。

戦争の終焉

当初は優勢だったエジプトも国内外の情勢がオワコンで、ソビエトの援軍まで介入してくると、遂にシナイ半島から完全に駆逐され、スエズ運河を挟んで両地上軍は膠着、海上ではエジプトは完全に不利な状況に陥り、シナイの通商破壊に苦しめられ、空に関しても奥地までシナイの爆撃を受けるようになると。シナイ半島を再び支配するのは不可能であり、戦争の継続は不毛であると判断される様になります。そこで国連の停戦監視の元1984年10月25日に停戦合意に至り、同年11月2日にスエズにて講和条約が結ばれ、「エジプトはシナイ・イスラム人民共和国の承認とシナイ半島産の石油利権の8割を委譲する事、替わりにシナイはスエズ運河の利権を全てエジプトの物にする事。」この条件で両国は講和しました。同じ年の12月4日に政府は独立宣言を発表し、これにて正式にシナイ・イスラム人民共和国が成立しました。