テュルキスタン連邦共和国/歴史

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本項目では、テュルキスタンの歴史について記述する[1]

先史時代

旧石器・新石器時代の遺跡は、中央アジア東部すなわち今のテュルキスタン連邦共和国の領域でも、東部テングリタグ山脈の北麓やトゥルファン盆地ロプ湖西、クムル周辺、タリム盆地周縁にみつかっている。中国では彩陶をはじめとする共通性から、それらの文化と、甘粛青海中原の文化とのつながりが指摘されることが多い。後者は、前5000年ころの甘粛秦安の新石器文化や、中原における前5000~前3000年の仰韶文化および同時期の甘粛の馬家窯文化、ついで前二千年紀なかばまでに彩陶、銅石併用、青銅器の出現をみる斉家文化、さらに龍山文化と同時期の甘粛・青海地方にそれぞれ特色のあるいくつかの後期青銅器時代文化(前千年紀ころの辛店唐汪、寺窪、卡約沙井文化)である。しかし、これらの文化とテュルキスタン共和国地域の遺跡との関係はまだ体系的な整理の段階までいたっていない。テュルキスタン共和国地域には、パミール東麓のカシュガルアクスなどに農耕、河川漁業、狩猟をおこなう定住民が前1000年ころにはいたらしい。それらに彩陶はないが、テングリタグ北麓のバルクルからイリ地方にいたる一帯、タリム盆地東南のチェルチェン、ロプ周辺には彩陶がみられる。そこでは細石器も併用し、石や泥レンガによる四角い住居址の発見がある。これらには総じて草原社会の影響が及んでおり、ことに彩陶の存在は、上述したような中央アジア西部、西アジアとの連続性をむしろうかがわせる。

中央アジア東部の文化を担った人々の系譜をみるならば、クムルやウルムチ近郊の青銅器時代後期墓の人骨やミイラは、モンゴロイド系と、コーカソイド系に大別される。タリム盆地周縁のオアシスから発見される人骨やミイラも少なくない。上述のようにコーカソイドの特質と馬文化をもった人々が、おそらくインド・イラン系の言語をもって、前二千年紀ころにはこの草原世界の東部やテングリタグの南にまで進出したと考えられる。彼らや、そしてインド・アフガンまで南下したグループ、そしてパミール・フェルガナ系のコーカソイドは、それぞれにクムルやテングリタグ東部にも住み着き、またホータンやロプにまではいり込み、ところによっては東方から拡大したらしいモンゴロイド系と混住ないし混血したとみられる。

草原世界の遊牧帝国

オアシス都市国家群の形成

テングリタグ山脈と崑崙山脈にはさまれたタリム盆地の周縁部には多くのオアシスが点在するが、なかでも規模の大きなオアシスには、その中心にオアシス国家が建てられていた。またこうしたオアシス都市や国家を繋いで交通・交易のルートが形成されたが、それは東西方向のみならず、テングリタグ北方の草原地域やタリム盆地の南方方面にも延びていた。さらに当該地域に拠るオアシス国家は、つねに南北、東方に勃興する周辺の巨大な政治権力(テングリタグ・崑崙山脈を境にして遊牧国家と、河西地域を通じて中華王朝国家)の支配を意識せざるを得ず、ときにこれらとの二重・三重外交を強いられた。

紀元前後の頃、タリム盆地周辺には「三十六国」とも「五十五国」とも形容されるほどの、数多くのオアシス国家が分立していた。その後、それらはほぼ5つ余りのオアシス国家(トゥルファン[高昌]、カラシャフル[焉耆]、クチャ[亀茲]、カシュガル[疏勒]、ホータン[于闐]、クロライナ[鄯善])に統合されていったと考えられる。そのため当該地域のオアシス国家は基本的には一都市一国家ではなく、多くは王の居城となったオアシス都市を中心として、周辺に点在する大小のオアシスをその支配下においた。そして、最高統治者たる王のもとにらそれぞれ特有の政治組織が設けられ、それによって領内に点在するオアシスを統治していた。なお王位はおおむね世襲されていたが、オアシスの諸国家を束ねる政治組織は成立しなかった。

各オアシス特有の言語文化圏については、まず前3世紀から後3、4世紀にまたがる時期にはタリム盆地南縁にガンダーラ語(ガンダーリー)・カロシュティー文字文化圏が想定される。ガンダーラ語は中期インド・アーリア系の言語で、前3世紀中期、マウリヤ朝アショーカ王の二碑文や、その後の西北インド(現パキスタンを含む)のカロシュティー文字碑銘に用いられるプラークリット(インドの俗語)と共通した言語である。この言語と文字の使用領域は、仏教とともに広まったと考えられる。西北インドからカラコルム山脈をこえる古道はタリム盆地西南縁のオアシスであるカルガリクからホータンに通じていた。

現存する最古(2世紀頃)の仏典写本といわれるダンマパダ法句経、ダルマパーダ)はこのホータンで発見されている。これは、19世紀末の中央アジア探検の時代に、ホータン・オアシス西南端のカラカシュ川右岸にそびえる断崖(玄奘のいう牛角山=ゴーシュリンガ山に関連か)に穿たれた洞窟聖地(現在ウジャト村に属し、イスラームのマザールになっているコマクリム遺跡)に住むムスリムが所持していたものを、1892年にロシアのカシュガル総領事ペトロフスキーやフランスの地理学者ドゥトゥルーユ・ド・ランスらが購入したものである。ガンダーラ語で記されていて、樺の樹皮の巻子(この形式は世界唯一)に右横書きのカロシュティー文字で書かれている。

さらにこの言語・文字はサンスクリット語の影響も含みつつ、後3、4世紀のタリム盆地東南の鄯善国(楼蘭、クロライナ)にまで、タリム南縁一帯のオアシスに広がって用いられた。インド仏教の東伝にともなう早期の言語・文字文化圏の非常に重要な一グループである。鄯善から精絶(ニヤ)にかけての地域から出土するカロシュティー文書にはさまざまな世俗・法律文書が含まれており、この言語がたんに宗教言語だっただけでなく、社会言語であったことも明らかである。2007年から始まったテュルキスタン・日本共同のニヤ遺跡共同発掘調査からも、訴訟や納税、行政、契約などに関する木簡文書が発見され、史料は増加している。

つぎに5世紀から10世紀まで、タリム盆地西北部と、ホータンを中心とする西南縁オアシスでは、中期イラン語の東部方言に属するトゥムシュク・サカ語とホータン・サカ語による書写がおこなわれた。サカとはもともと古代ペルシア語碑文に記される北方遊牧民であり、ギリシア語史料にいうスキタイのことである。前2世紀以降西北インドを支配したのもこの系統の人々であると考えられており、言語的に関連はあるものの、人間の移動や文化伝播の実態は明らかではない。トゥムシュク・サカ語の資料はごくわずかであるが、仏教、マニ教関連の写本、世俗文書があり、トゥムシュク、マラルバシ、東はトゥルファン盆地からも出土している。それよりやや新しいかと考えられるホータン・サカ語の仏教を主流とするホータン文化・社会の広がりを示す。前代のインド系ガンダーラ語の影響を含みつつ、あらたな言語文化社会の形成がなされたとみなければならない。

サカ語はいずれも前3世紀のアショーカ王碑文でも使われたインドの左横書きブラーフミー文字で書かれたということができる。タリム盆地北縁一帯ではサンスクリットや後述の「トハラ」語と同じく、後3世紀、インドのグプタ朝ブラーフミー文字の変形である斜体文字が、そしてタリム盆地西南縁ではを表記したのと同じ直立文字と少しあとの時代の草書体文字が使われた。つまりインド系の文字に工夫を加えながらイラン語を表記し、地域的、時代的な変化を生んだのである。この言語はおそらくカシュガルにおいても使われていたと想定されている。

サカ語の中心がタリム南縁だったのにたいして、ほぼ5世紀から8世紀ころまでのタリム盆地北縁からトゥルファン盆地にかけての諸オアシスには、やはり前代南方のガンダーラ語の影響をいれながら、20世紀初頭ころに「トハラ」A語(カラシャフル、トゥルパン地域)、「トハラ」B語(クチャ地域)と名づけられた言語が用いられた。これは、ギリシア語ラテン語などと同じケントゥム系西方言語でインド・ヨーロッパ系言語のなかでもっとも東方に位置するものであった。ただし、この「トハラ」は紀元前後のストラボンのいうところのバクトリアのトハラ(トハロイ)や、また7世紀に玄奘がいうアフガニスタン北部の都貨邏(トハラ)国およびホータン東方(エンデレ)の都貨邏故国とは別物と考えられている。結局、孤立して存在したこの言語の形成過程は明らかになっていないものの、現在ではAがカラシャフル(アグニ)語、Bはクチャ語と呼ばれている。その分布からみてクチャ語がカラシャフル語に先行していたとみられる。

「トハラ」語の書写物は仏典のインド語からの翻訳がほとんどで、インド文化の強い影響をみることができるのだが、若干の詩文、医学書、世俗文書などがあるので、かなりオアシス社会に定着して広まったのであろう。これらの言語は基本的にブラーフミー文字によって記されている。ただ、この「トハラ」語的要素はタリム東南縁のカロシュティー文字言語つまりガンダーラ語に影響しているという説もある。そうなると、ガンダーラ語が公用語となる以前からこの言語がタリム北方から東南まで広がっていたということになり、その使用年代や相互影響関係には未解明の点が残る。

以上にあげたガンダーラ語、サカ語、「トハラ」語をそれぞれ骨格とする言語社会圏の文化は、いずれもインド文化と仏教を基調としたものであったが、タリム南縁においてはヘレニズム文化が浸透した。そして、草原の匈奴が衰えた3世紀ころからは、政治的にもオアシスの統合が起こる。カシュガルのアマチャ、ホータンのヴィシャ(ヴィジャヤ、尉遅)、クチャのペイ(白、伯)、カラシャフルのロン(龍)などの王統が認められ、それぞれの王族支配のもとに、オアシス灌漑農耕を基盤とする城郭都市中心の経済と仏教文化が繁栄した。

例をあげればクチャに残る数々の遺跡は仏教の歴史の残照を今にみせているが、往時の様子について玄奘は、クチャは周囲17、8の大都城をもち、、麦、粳稲、ブドウ、ザクロ、梨、、桃、杏をつくり、金、銅、鉄、鉛、錫を産し、管弦妓楽(クチャ音楽)で名高く、また金銭、銀銭、小銅銭を用いるという。そのほか、多少なりとも政治的側面がわかるオアシスをみると、鄯善国は少なくとも3世紀半ばから80~90年間、マハーヌヴァ(大王)などの称号をもつ7人の王による統治が続き、その途中からは中華的な要素(柱国という職名の採用など)を含みながら5世紀なかばまで中国の敦煌からホータンまでの間の地域を支配し、司法・財政官が中央、地方に任命されて徴税などをおこなっていたが、各オアシスの支配者は温存され、自由民は土地や奴隷を所有し、各種の契約による婚姻や売買の習慣が根づいていた。一方ホータン仏教王国は1006年にイスラーム王朝のカラハン朝に滅ぼされるまで存続し、河西の沙州(敦煌)曹氏政権とも密接な外交・婚姻関係をもった。その間、960年代まで50年間にわたって統治者であった王サムバヴァは李聖天の名で知られ敦煌莫高窟98窟の供養人として描かれている。タリム盆地のオアシスはそれぞれ自立した言語文化をもちながら繁栄していたのである。しかし、外部からさまざまな勢力がタリム盆地周縁とトゥルファン盆地のオアシスにおよぶと、オアシスの住民構成には変化が生まれ、また文化もさらに多様化していくことになる。

周辺諸国の進出

テュルク化とイスラーム化

ウイグルとモンゴル帝国

ポストモンゴル時代

ジュンガル王国

近世の北方遊牧民

モンゴル帝国崩壊後も内外蒙古の草原にタタル部(韃靼)が活躍し、西北蒙古にはオイラト(瓦刺)が勃興し、互いに北アジア草原に覇を争い、あるいは明朝に侵寇し、長城線を挟んで中国と抗争していたことは周知の事実である[2]。そうしてタタル部の後身である内蒙古のトメト部(土黙特)、チャハル部(察哈爾)にせよ、また外蒙古のハルハ部(喀爾喀、ハルハ=モンゴル)西北蒙古のオイラト部にせよ、それぞれ、北アジア草原の王国として分立、相対抗したのである。また、西方のカザフ草原にはウズベク族の分派としての遊牧カザフ人のハン国が東方遊牧民とは異質な集団として発展しつつあった。15世紀以降の中央ユーラシア草原には、モンゴル帝国のごとき世界性を持つ騎馬帝国が見られなくなったためか、近世には北アジア遊牧民勢力が衰退したかのように考えられているが、しかしそれは、17世紀の初頭から、1世紀半の期間にわたって発展したジュンガル王国の存在に十分な注意を払ったものとは言い難い。ジュンガルは、系譜的には匈奴に端を発する中央ユーラシア草原の「遊牧騎馬民国家」の最後のものであり、ジュンガル王国の崩壊後(1755)の後は、もはや「遊牧騎馬民国家」は存在しないのである。世界性という点ではモンゴル帝国に及ばなかったにせよ、大清帝国とロシア帝国を東西に置き、中央アジアのテュルク・イスラーム社会や仏教権国家チベットとも深い政治的交渉を持ったジュンガル王国の事業を究明することは、近世のテュルキスタン史の理解にとって極めて重要である。

ジュンガル勃興史序論

ジュンガルとは、17世紀初めから18世紀中期にかけてアルタイ山脈周辺から西北蒙古・天山北方の草原を根拠地として建てられたオイラト・モンゴル族国家の政治的名称である。かれらの前身は13~14世紀のオイラト部であり、15世紀すなわち中国の明朝の初期に活躍した瓦刺の直接の後裔であって、オイラト部はエセン・ハン(也先汗、1440~1450)の下に明朝の北辺へ侵冦したり、西あってはモグーリスタン・ハン国やカザフ草原にも侵入して勢威を振るったが、中央アジアのムスリムはオイラト人をカルマクと呼ぶようになり、さらにロシア語に入ってカルムィクと呼ばれた。しかし、16世紀の初め、東方のタタル部が復興し、まずダヤン・ハン(達延汗、1480~1524)が内モンゴルを統一し、その孫のアルタン・ハン(俺答汗、1542~1582)は16世紀の後半に兵を出してオイラト部を攻撃し、西北蒙古の奥深いイルティシュ流域に追い詰めた結果、オイラトは約半世紀間も政治的没落に陥ってしまった。当時、オイラト部はドルベン・オイラト(四部オイラト)とも呼ばれ、だいたい四つの部族(ウルス)から成立していたことは『蒙古源流』『アルタン・トプチ』や当時のロシア史料によって知られる[3]。オイラトの四部とは普通、チョロス(綽羅斯、デルベト[杜爾伯特]を含む)、バガトウト(巴噶図特)、ホイト(輝特)、トルグート(土爾扈特)であると言われるが、他にホシュート(和碩特)もあり、その他にもいろいろの数え方がある[4]。17世紀の初めに、エセン・ハンの後裔と言われるチョロス部長のカラクラ(哈喇忽喇)がオイラト族国家の復興を企てて四部の盟主にのし上がったが、カラクラとその部族が全オイラト族の左翼(モンゴル語でジェウン・ガル)をなしていたということから、この政治的集団はジュンガル部と呼ばれるようになった。これが復興したオイラト族の新しい遊牧騎馬民国家ジュンガルの起源であり、清ではこれを準噶爾とうつし、また、彼らを衛拉特(オイラト)とも呼んだが、別に厄魯特という語もあり、これが衛拉特を指すのか、また、準噶爾を指すものなのかは未だ結論されていない[5]。いずれにせよ、新興のジュンガル国家はチョロス部長の家系を支配者とするチョロス部政権によって樹立されたものであった。当時、ハルハ部長のゲレセンジャの曾孫でホトゴイト部長のショロイ・ウバシ・ホンタイジは、1609年頃、オイラト族を西方に圧迫し、ウプサ湖を中心としてコブド(科布多、アルタイ山脈の北)の地を根拠地として初代のアルタン・ハン(金の汗の意)と呼ばれ、1680年頃まで、この小王国を維持した。1616年、ロシア使節イヴァン・ペトロフがシベリアよりアルタンハンを訪れ、国交が開かれ、ロシアはアルタンハンを通じて中国と通商することができた[6]。勃興期のジュンガル部もこのアルタンハン勢力の圧迫に屈辱を強いられ、イルティシュ上流域に移牧せざるを得なかったが、カラクラ・タイシャ(?~1634、ガルダンの祖父)は外敵からオイラト族の防衛に努め、また、オイラト諸邦の統合に生涯を捧げて、1634年に他界し、ジュンガル統一の業は子のバアトル・ホンタイジ(巴圖爾渾台吉、1635~1665)に引き継がれることになった。既に父のカラクラの在位時代より、イルティシュ川の東岸、セミパラチンスクに近いヤムィシュ湖地方に拠って独立の勢力をなし、アルタン・ハン勢力と抗争し、シベリアのロシア当局とも外交関係を持っていたが、1635年には父カラクラを継いでホンタイジを号したことは確実とみられている[7]。カラクラとバアトルの政治権力が強化するにつれ、タルバガタイ地方に根拠をおいていたトルグート部長のホ・オルルク(和鄂爾勒克、?~1634)はチョロス部勢力に圧迫され、1616年ころ、新牧地を求めるために、部民をつれて移動し、ヤムィシュ要塞(イルティシュ上流域)を経てトボル川上流へ移牧し、さらに西進して、1623年よりヴォルガ川下流域一帯に移住し、ロシア政府から厚遇された。これがヴォルガ・カルムィクのおこりで、オイラト族の民族移動として注目され、かれらはロシアや、トルクメンなど周辺の諸民族とも密接な交渉を持った。かれらはすでにチベット仏教徒であったため、チベットに巡礼することやめず、また、清朝とも往来しており、1712年(康熙51)に康熙帝の命を受けた使節団がシベリアを経由してヴォルガ川のトルグート族のアユキ・ハン(阿玉気汗)を訪問し、1715年に帰京した事実は興味深いが、とくに使節団の一人で満人のトリシェン(図理琛)が書いた紀行『異域録』は極めて重要な史料となっている[8]。後に、1771年にトルグート族の大部分は清朝支配下の天山北路の故郷に帰還したことも注意すべき事件だった。 また、バガトウト部に代わりオイラト四部の一つとなったホシュート部は天山地方のウルムチ付近に遊牧していたが、やはりチョロス部勢力に圧迫され、1613年ころ、部長のグシ・ハン(顧実汗)に率いられて青海地方に遊牧し、後にチベットを保護領として支配し、1723年に清朝領の西寧を侵して敗れ、結局、清朝に服属することになった。これが青海蒙古である。かくてチョロス部(デルベトを含む)は天山とアルタイ山脈間の、いわゆるジュンガリア草原に諸部族を統合してジュンガル政権を樹立したのであって、かつてのチンギス・ハンが漠北を平定したのと似通っている。バアトル・ホンタイジを事実上の建設者とするジュンガル国家すなわちチョロス朝の支配者はホンタイジの称号(中国語の「皇太子」が語源)を持ち、『ツァジン・ビチク(オイラト慣習法)』や『オイラト法典』を編纂し、僧のザヤ・パンディタに新しいトド文字と文語を作らせ、チベット仏教を尊信し、タルバガタイの東のホボクサル(和博克薩里)の地に定住都市を建設し、王家の幕営の地としたが、後にジュンガル王国の首都はグルジャ(伊犁)に移った。

ジュンガルの軍事的発展

遊牧騎馬民国家としてのジュンガル王国の主要な仕事が対外戦争であったと言っても決して奇異なことではない。遊牧騎馬民国家とは、遊牧的農牧経済を営む遊牧民を直接生産者として構成された政治的集団で、王朝的支配者と、ある程度発達した国家機構(官制と法典)によって統治され、大規模な軍事行動を繰り返し、掠奪・捕虜獲得・貢納徴税・国際商業の直接的、間接的支配により、定住農耕社会に対立して、主としてモンゴリア・ジュンガリア・カザフ草原を根拠地としめ政権を維持した国家体制であったと定義される。スキタイ・匈奴・柔然・突厥・ウイグル・モンゴル・タタル・オイラト・カザフ・ジュンガルなどはこのような騎馬遊牧民国家であったが、このような国家は定住文明をかなり利用し、摂取することが多く、また、ある歴史的条件の下にあって農耕社会を直接支配し、いわゆる「征服王朝」と称せられる国家(たとえばキタイ・大元ウルスなど)を建てる場合もあった。私が騎馬遊牧民国家と唱えるものは、「征服王朝」とは異なり、草原の王国であり、これが遊牧騎馬民の国家体制の本流と見なされる。このような「遊牧騎馬民国家」の形成・発展・消滅の原理や本質については本書では触れないが、ジュンガル王国が最後こ遊牧騎馬民国家であった事実は十分に脳裏に留めねばならない。遊牧騎馬民国家の歴史的役割は農耕定住文明社会との政治的経済的諸関係に存ずるが、国家の成立と存続の基礎は協力な軍事力にあった。とくにジュンガル王国はその四方に強力な国家や種族と接していたためか、王国成立期の17世紀初頭から、崩壊期の18世紀の40年代に至る約1世紀半の期間、ほとんど絶え間ない対外戦争を続行したが、この軍事的発展と征服戦争の実情を跡づけることは、ジュンガル王国国史の性格、特に17~8世紀中央アジアの国際関係や東西交渉を考察する上に重要な課題となるのである。

ジュンガル勃興期の対外戦争

ジュンガル王国の形成以前より、すなわち16世紀末より、オイラト族が西北のカザフハン国と互いに攻撃し合っていたことは諸種の史料より知られ、1582年にはカザフ族のテヴェケル・ハン(1568~ 1598)がオイラト族を攻撃し、また、その治世の間にオイラト族を攻めた後、タシュケントに退いたことがサイフィーの記録に伝えられている[9]。17世紀の前半期にオイラト族こ支配者となったカラクラの時代に、父のカラクラと分かれてイルティシュ東岸に根拠を置いたバアトル・ホンタイジは西方のカザフ人・アルタイ諸族・キルギス人を攻撃し、激しい逃走を繰り返した。1616年にはカザフ人のジュズがバアトル・ホンタイジに朝貢したと伝えられ[10]、1620年にはカザフのジュズがカルムィクを攻撃し[11]、1624年にはバアトル・ホンタイジはカザフ草原のイシム川へ出征し、「ブハラ人(カザフ人を指す)」と戦って捕虜を獲得したという[12]。1628にはバアトルはシベリアのトムスク地方のバラビン・タタール人を攻めて臣属させてヤサク(貢納)を徴発し(ミュラー『ロシア史集成』、ポタポフ『アルタイ人史概観』)、1634~35年にはカザフ人と戦い、カザフのジャハーンギール・ハンを捕らえ、また、バラビン・タタール人とクズネッツ・タタール人(トミ川流域に分布)に対するヤサク徴発を強化し[13]、1639年には天山のキルギス人を服属させた。また、フィッシェルによると、バアトルは1643年にキルギス部を征服したが、バアトルは既にアラト・キルギス(アラタウのキルギス)とトクマン(チュー川のキルギス)を領有していたというが(フィッシェル『シベリア史』)、この時にバアトルは5万の兵をもってカザフ草原、セミレチエ地方に侵入し、キルギス人を征服したと見られる。[14]このようにジュンガル王国勃興期の17世紀前半期に、数度に及ぶ征服戦争を続行し、貢納を徴発し、遊牧騎馬民国家としての性格を明らかにした。

草原の勇者ガルダン

清朝の英主康熙帝(1662~1722)とモンゴリア草原の覇権を争って敗退し、甥に背かれてアルタイ山中で毒を仰いで死んだジュンガル部長ガルダン・ハン(噶爾丹汗)の生涯はら遊牧騎馬民国家の支配者らしい数奇な運命に充ちていた。ガルダンは1644年(順治元)、ジュンガル部長バアトル・ホンタイジを父として生まれた1665年(康熙4)、バアトル没し、ガルダンの同母兄センゲ(僧格)が位を襲った。当時、ガルダンは22歳の青年でチベット仏教僧としてチベットのラサの町でダライラマ5世の下で修行を積み、ダライラマの信任も厚く、また、その執権職で実力者こサンギェ(桑結)と親交があり、その支持を受けたが、ガルダンは後にこの関係を利用してチベット仏教=ジュンガル世界帝国の建設を思い立ったものと見られる[15]。ラサに在ってガルダンは清朝や中央アジア・カザフ草原の情勢について知識を重ね、チンギス・ハン帝国に匹敵する遊牧騎馬民帝国の樹立を企てたであろうことは、彼のその後の政治的軍事的行動より見て推測に難くない。ところで、1671年にセンゲは異母兄のセチェンらと所領を争って殺されたが、この報を聞いたガルダンはダライラマの許しを得て還俗し、急ぎ帰国し、セチェン・ハンを討って殺し、センゲの仇を報いてホンタイジを称し、チョロス王家の内紛を平定し、1678年(康熙15)にジュンガリアを平定し、ジュンガル王国の完全な支配者となった[16]。遊牧騎馬民国家に常に見られる王位継承を巡る権力闘争と内紛を巧みに処理したガルダンの眼は外部へと向けられた。これより開始されるガルダンの軍事的発展はバアトル・ホンタイジの事業を継続したものであるが、その征服戦争の規模はさらに拡大した。まず、1678年には青海に侵入しようとして果たさず、途中で軍を返したが、甘州近辺のサリ=ウイグル部族の地方に軍隊を駐屯させて硫黄、倭鉛などの貢納を徴収し、1679年(康熙18)には初めて東トルキスタンのクムル、トゥルパン(カラ・ホージャ)を征服し、土着ウイグル人から貢納を徴発した。翌1680年にはアルティ・シャール(「六域地方」、東トルキスタン西部)に遠征し、カシュガル・ヤルカンド・ホータンなどの都市を服属させ、チャガタイ・ハン家の一族やホージャたちをグルジャに幽閉し、別のホージャを傀儡としてアルティ・シャールを支配させてその代償として莫大な貢納(アルバン)の支払いを約束させ、自らは監督政治を敷き、このようにきてタリム盆地のテュルク民族は異教徒ジュンガルの属領となり、この状態は1750年ころまでかわらなかった[17]。ガルダン・ホンタイジがチベットのダライラマから、ボショクトゥ・ハン(博碩克図汗、「祝福された汗」の意)というハン号を授けられたのもこのころであった。チンギス家の流れを引くホシュート部こオチルト・セチェン・ハンの娘(または孫娘)で、ガルダンの兄のセンゲの妻であったアヌダラ(阿奴)を奪って自分の妻としたガルダンは、このようにして、チンギス家の血統の権威を獲得するに至った。ガルダンは1681年以降、連年、西方へ侵略戦争を続行し、サイラム市、カザフ人、キルギス人を攻め、1684年にはカザフ人の根拠地となっていたタシュケント・サイラム両都市を占領したが、大ジュズ、特にセミレチエ地方のカザフ集団が没落したのはガルダンの征服戦争によるものであった[18]。ジュンガルの西方発展について清朝史料の所伝は乏しいが、『秦辺紀略』の噶爾丹伝(内藤虎次郎『読史叢録』所収)によると、

東方はすでに征服したので、そこで、西の方、回回(ムスリム)を撃ち、数十城を下した。回回のなかに馬哈納非(ハナフィーを指すか)の教えを密かに受ける者が有って、初めは迎降した。ガルダンは雲夜にこれを襲撃したが、殺傷される者の数は10余万に至り、馬匹器械の損失は数え切れなかった。 《壬戌の年(康熙21、1682)、[ガルダンは]一度回回国へ侵入した。その国は添巴(貢納)を納め、浮図教(仏教)を奉じたので、これを許し、兵を収めてその城に入ったところ、夜半に回回の外援が到着し、城中はこれに応じ、内外は合わせ攻め、火光は天を燭らした。ガルダンの部落は皆、潰えた。この時、積雪が塹壕が埋めたので、人馬はそこに陥って、脱け出せることができなかった。城中は追撃したので、死者は無数で、ただ、ガルダンは馬を踊らせ、鎗(銃)を持って、辛うじて逃げた。》 マハナフィーは天方国(アラビア)では聖人とされている者てまある。ガルダンは師を喪って国に帰ったが、未だ嘗て鋭気を挫かれず、ますます、兵士を徴発して、初めの通りに訓練生した。 《ガルダンは敗れて帰ると、新兵を集め、新しい軍馬を整え、これを試そうと思った。極西の地方に、ある民族がおり、その形は犬の如くで、一日に数百里も駆けることが出来、その婦女は非常に美しいということを聞いて、多数の兵を率いて、馬を駆って直ちにその国に入った……。》 ガルダンは使者を回回に派遣して、『汝が来降しなければ、これより後は毎年兵を用い、夏は汝の耕作を蹂じり、秋は汝の穀物を焼くであろう。今、私の年齢は40そこそこだが、髪が白くなり、歯が落ちるまで続けよう』と言ったところ、城中の人は聞いて、みな、肌に粟を生じ、昼も門を閉じた。その明年(康熙22、1683)、ガルダンは大いにこれを破りら回回は悉く降り、敢えて復た叛かなかった(《》内は原文の割註)

『秦辺紀略』の噶爾丹伝は清朝の正史ともいうべき『清朝実録』にも見えない独自の報道を含んでいて、貴重であると同時に興味深いが、上述の文は要するに1628年(壬戌の年、康熙21)に、ガルダンが回回国に侵入し、極西の美人国へも侵入し、翌1683年に再び回回国を討って征服したことを伝えるものである。この1682~83の事件として記されているガルダンの回回国の征伐とは、彼のカザフ侵略を指すもので、極西の美人国はノガイ族に当たり、「形は犬の如し」というのはノガイ(モンゴル語で「犬」の意)の名から出たものであろう[19]。この回回国は農耕の民と伝えられているから、カザフ草原の奥地と見るよりもむしろカザフ・ハンの支配下にあったスグナク・トルキスタン・タシュケントなど、シル川中流域のウズベク族の諸都市を指すものであろう。『親征朔漠方略』および『聖祖実録』の康熙37年(1698)四月癸亥条に見えるツェワン・アラプタン(策妄阿喇布坦、センゲの子)の申し立てによると、「ガルダンがカザフの頭克汗(ティアウカ・ハン)の子を捕らえてダライラマに与えたが、頭克の乞いに応じてその子を帰還させたところ、頭克は反って臣(ツェワン・アラプタン)の500人の部下を尽く殺したことがある云々」という話が伝えられている。これは1682~83年にガルダンが回回国を征服したという『秦辺紀略』噶爾丹伝の記事に該当すると指摘されたのは和田清であった(和田)。カザフの頭克汗がカザフハン国中期の名主ティアウカ・ハン(1680~1718)であることは疑いない。1684~86年の間にもガルダンはカザフ草原の南東部に侵入しており、要するに1680年代にジュンガル王国が東トルキスタンとカザフ草原へ掠奪と貢納徴収を目的とした征服戦争を行ったことが明らかである。当時の清朝もガルダンの中央アジア征服について一応の知識を有しており、「噶爾丹は吐魯番・葉爾欽・薩馬爾漢・哈薩克などの千余部落を并呑した(『聖祖実録』康熙36年四月甲寅条)」とか、「噶爾丹精さはかつて回子の中の薩馬拉罕・布哈爾・哈薩克・布魯特(キルギス)・葉爾欽・哈思哈爾・塞拉木(サイラムか?)吐魯番・哈密の諸国を破ったが、その攻取し、降伏した者は1200余城であって、すなわち、戦闘に習う国であり、喀爾喀はどうして能く抵抗できようか(『聖祖実録』康熙36年五月癸卯条)」とか伝えている。ガルダンがブハラとサマルカンドを征服したというのは事実と反するが、東トルキスタンとカザフ草原の一部を征服したという清朝の伝聞は誤りはない。

悲劇的帝王ガルダン

このように中央アジア方面の計略に成功したガルダンは、かねて係争関係のあったハルハの征服を実行しようとして

清朝の「新疆」

革命と民族

辛亥革命と「新疆」

20世紀に入り中国内地での革命運動が活発化すると、その影響は「新疆」にも及んだ。新建陸軍の中にも革命派が潜入し、彼らはすでに「新疆」で隠然たる勢力を有していた哥老会を味方につけることに成功した。哥老会は、湘軍の将士として「新疆」にはいって以来、あらゆる階層の漢人、とくに軍隊に広まっていた。1911年10月10日に勃発した武昌蜂起によって辛亥革命が発生し、翌1912年1月には「新疆」でも楊纉緒らグルジャ(伊寧)の革命派が蜂起し、前任の伊犁将軍でモンゴル正藍旗(グル・ラムン・グサ)の廣福を臨時都督とする軍事政権を樹立した。その政権のメンバーには回民が一人含まれているだけで、もちろん現地のムスリムは皆無である。このことは、「新疆」における辛亥革命が、漢族のあいだの権力争い以上のものではなかったことを如実に示している[20]

宣統帝の退位が伝わると、ウルムチ(烏魯木齊)の省政府首脳は政権を放棄した。袁世凱北京政府によって袁大化が新疆都督に任命されたものの省内の混乱を収拾できず、後任に推薦した袁鴻祐も哥老会に暗殺されたため、最終的にウルムチ地区の知事であった楊増新が新疆省長に推薦され、政権を掌握した。袁大化が内地に亡命すると楊増新は督軍に任命され、ドゥンガン兵を編成してクムルのムスリム反乱や哥老会の反乱を鎮圧する一方、グルジャの革命政府との和平交渉に成功して革命派を自勢力に取り込み、「新疆」の実権を完全に掌握して北京政府に彼の支配権を認めさせ、介入の排除に成功した。

楊増新の統治

楊増新は雲南出身の科挙官僚(進士)であり、甘粛の知州を経て新疆布政使王樹楠の推挙で「新疆」各地の長官を歴任した[21]。彼は清朝の支配体制を大きく改変することなく、「新疆」を自らの独立王国にしようとつとめた。北京政府の名によって清代には爵位を保持していなかったカザフの部族長たちにあらたに郡王以下、ベイセ、タイジなどの称号を与えたことは、前代の体制をそのまま継承しようとする彼の施策の典型であるといえる。一方、内政においては「無為而治」の原則をとなえ、賄賂の廃止や郷約 の権限縮小などにみられる官僚機構の統制などの財政改革を行い、財源の確保に努めた[22][23]。これは現地のオアシス住民の自治生活を圧迫したものの、伝統的イスラームへの干渉を控え、伝統宗教による社会秩序の維持を図ることで省内の安定を保つことに成功した。

外交においては、楊増新は新疆を外部から遮断することに細心の注意をはらい、第一次世界大戦前、オスマン帝国の使節団の「新疆」訪問を断固拒絶し、また大戦中には、在カシュガルのイギリス領事館関係者が、メッカシャリーフが公布したオスマン帝国からの独立宣言の写しを大量に持ち込んで、オスマン帝国の汎トルコ・汎イスラーム主義宣伝にたいする反宣伝をおこなおうとした際に、イギリスの「善意」は了解するといいつつも、東トルキスタン住民のあいだに独立の機運を煽る恐れがあるとして、この宣伝文書をすべて没収させた。

にもかかわらず、この遮断を完全に行うことは不可能であった。オスマン帝国はアブデュルハミト2世も、青年トルコ革命によって彼に替わった「統一と進歩委員会」政権も共に汎テュルク主義の宣伝を中央ユーラシアの全域に広めることに熱心であった。1913年末、イスタンブールを訪れたカシュガルからのメッカ巡礼者の一グループに対し、「統一と進歩委員会」政権の指導者の一人であったタラート・パシャは、オスマン帝国からカシュガル出身の一青年に伴われて、アフメト・ケマルという若いトルコ人がロシア領中央アジアを経て「新疆」に至り、カシュガル東北のアルトゥシュの町に現地の有力者の支持を得て、師範学校を開設した。

この学校はカシュガルにおける民族主義的教育運動の中核となったが、第一次世界大戦でオスマン帝国が中央同盟国側で参戦すると、アフメト・ケマルは活動を停止させられ、ついでウルムチで軟禁状態におかれた。カシュガルとウルムチでアフメト・ケマルと関わりのあった人々は、それ以後もさまざまな潮流の民族主義的な活動に参加した。のちに第一共和国総統に就任するフサインやウイグル党(現在のテュルキスタン国民連合・ウイグルの母体)の創設者であるマスード・サブリもアフメト・ケマルと親交があった。第一次世界大戦期に、オスマン帝国の汎テュルク・汎イスラーム主義宣伝が東トルキスタンである程度の反響をみたことは、この地のあるムフティーが、オスマン帝国カリフに従って参戦することは東トルキスタンのムスリムの義務であるとのファトワーを出したという事件からも推測される。

楊増新は国境を接するロシアとの関係に留意し、巧みな外交手腕で衝突を避けた。十月革命を避けて「新疆」に亡命してきた白系ロシア人を抑留し、ついでこれをモンゴル国境地帯へ移し、トルグート部とカザフ人をアルタイ地方へ移住させた。新疆省の西部で新たに国境を接することになったソヴィエト政権とは通商協定を結び、友好的態度をとったので国境紛争もなく、ソヴィエト政権と新疆省との間に混乱は起こらなかった[24]

1924年5月、北京で「ソ連邦と中国(新疆)の暫定通商条約」が結ばれ、中ソ間の外交関係が回復された。ついでタルバガタイにソヴィエト領事館が設けられ、1925年にはシャラ・スメ、グルジャに領事館が開設され、ウルムチにソヴィエト領事館が設置された。これとともにソ連領内のセミパラチンスクに新疆省領事館が設けられ、タシュケントアンディジャンアルマ・アタにも領事館が設けられた。

1927年蒋介石南京国民党政府を樹立し、続いて内戦が起こったが、楊増新は中国内地の政治には中立を守り、1927年に蒋介石政権がソ連との関係を断絶したときにも彼はソ連との友好関係を保ち、ソ連もこれを歓迎した。しかし、1928年6月、楊増新は南京政府を承認し、国民党の青天白日旗を掲揚するよう省内に布令したが、新疆の政治は中国本土とはほとんど独立の状態にあった。

第一共和国

東トルキスタンイスラーム共和国成立

評議会共和国

ソ連の影響を受けたテュルキスタン共産党による一党独裁体制が確立、テュルキスタン・ソヴィエト共和国が成立

1996年革命

1992年のソ連崩壊によって後ろ楯を失った共産党に対する反発が強まり暴動が発生、ホータンに反政府勢力による臨時政府成立

連邦共和制の発足

ウイグル共和国派と体制派が講和、国連監視の下で連邦共和国政府機関の設立と大統領、議会選挙が行われる

関連項目

参考文献

  • 小松久男『中央ユーラシア史』、山川出版社、2000年
  • 小松久男『中央ユーラシア史研究入門』、山川出版社、2018年
  • 江上波夫『中央アジア史』、山川出版社、1987年
  • 『北アジア史』、山川出版社、
  • 王柯『東トルキスタン共和国研究:中国のイスラムと民族問題』、東京大学出版会、1995年、
  • 窪田順平『中央ユーラシア環境史 2 国境の出現』、臨川書店、2012年
  • 佐口透『ロシアとアジア草原』
  • Ulug Burhan『Türkistanning Milliy Tarixi』、Türkistan milliy nashriyot birlashmasi、2001年[25]
  • U.ブルハーン著・華寄団子訳『テュルキスタン国史』、民明書房、2001年[26]

脚注

  1. 近代以前は現実の東トルキスタン地域と同じ歴史を歩んでいます。テュルキスタン連邦共和国の成立は革命と民族からご覧ください。
  2. 和田清『東亜史研究』蒙古篇
  3. 羽田明「厄魯特考」
  4. 若松寛「カラクラの生涯」
  5. 羽田明「厄魯特考」
  6. バッデレイ「ロシア・モンゴル・中国」
  7. 若松寛「カラクラの生涯」
  8. 今西春秋『校注異域録』
  9. アブドゥルケリム・ブハーリー『中央アジア史』
  10. バッデレイ『ロシア・モンゴル・中国』
  11. ミュラー『ロシア史集成』
  12. 『1607~1636年のロシア・蒙古関係史資料集』
  13. ミュラー『ロシア史集成』
  14. バッデレイ『ロシア・モンゴル・中国』
  15. 羽田明「ガルダン伝考証」
  16. 羽田明「ガルダン考証伝」
  17. 嶋田襄平『アルティ・シャフルの和卓と汗と』
  18. バルトリド『セミレチエ史』
  19. 和田清「明末清初における蒙古族の西征」
  20. 小松久男『中央ユーラシア史』
  21. 江上波夫『中央アジア史』
  22. 江上波夫『中央アジア史』
  23. 参照:楊増新
  24. 江上波夫『中央アジア史』
  25. 架空書籍
  26. 架空書籍