大稲鶴帝國

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    大稲鶴帝國(だいいなづるていこく、Empire of Great Inazuru)は、太平洋に位置し、稲鶴本島やその周辺の島々、及び水無月諸島などからなる、君主制国家である。首都は、稲鶴本島北東部に位置する稲本都に置かれている。

    気候は四季の変化に富み、国土の多くは山地であって、人口は平野部や海岸沿いに比較的集中している。国内には行政区分として6の都道府県が有り、稲鶴人・日本人・外国人系の人々が居住していて、公用語は日本語である。

    内政では、第二次世界大戦中に旧稲鶴大王国が日本に併合された後、1945年に米軍統治下に入り、その後第二次世界大戦後の1948年に独立して今に至る。また、G21の参加国である。外交では、1950年から国際連合に加盟し、国連中心主義を採っている。

    他言語版

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    基本データ

    大稲鶴帝國国旗
    大稲鶴帝國国章
    国の標語 一致団結
    国歌 偉大なる我が稲鶴の地
    公用語 日本語

    (尚、公文書では一般的に漢字カナ混じりで書かれる)

    首都 稲本都
    最大の都市 高杉特別区(13区を一つの自治体とみなす場合[1])
    面積 19100㎢
    人口 7,042,676人(2020年)
    人口密度 343.2人/㎢
    建国 1948年7月20日
    通貨 鑾(IZL)
    時間帯 UTC+10 (DST: なし)
    ISO 3166-1 IZ/EIZ
    ccTLD .iz
    国際電話番号 693

    政府

    皇帝 倫帝(涼谷 倫三)
    行政総括大臣 飯田 重明
    国会保守院議長 安道 橘太朗
    国会革新院議長 月島 尚子
    警視庁長官 中西 遼一

    GDP

    合計(自国通貨表示) 84兆794億鑾
    合計(USドル表示) 2,813億USドル
    1人当たり 40,185USドル

    概要

    大稲鶴帝國は、北太平洋、カムチャツカ半島南部沖、及び仙台沖に位置する島国である。領土全体が島嶼であり、地続きの国境も存在しない。

    起源

    大陸及び日本列島からの移住と日本文化の受容

    離島も含めて60以上(時代によって変動)の島を有する稲鶴本島近海は、他の大陸や島々と陸続きになった事はない。初めて人の移住が確認されたのは5万年前とされている。元々海が広がり他の文化圏との交流が難しい上に山がちな地形で、得られる資源も少なく、初期に定住した人々は少なかったため独自と言える特徴的な文化はあまり形成されなかった。そんな稲鶴諸島に文化を持ち込んだのが今の日本人である。彼らは、定住集落、農業、耐久性の高い高度な建設技術、そして日本語を稲鶴諸島に持ち込み、此れを広めた。また稲鶴にはアニミズムや祖先崇拝が日本人の渡来より前から根付いて居た為、神道も容易く受容できたという。また仏教も渡来し、広く信仰された。

    小国家の形成と王朝の発足

    日本から農業が齎されると、農作物を巡って貧富の差が生まれ、小国家が沢山形成され始めた。此の頃を吉賀里時代と呼ぶ。此の頃日本から稲鶴は「沖松島」と呼称されて居り、国家体系のようなものが出来てからは「沖松国」と呼称されて居たという。此の呼称は、7世紀に国号を稲鶴と改めるまで使われつづけた。此の時代の稲鶴諸島は、複数の小王が土地を分割して夫々を小国家として統治しており、統一国家は成立して居なかった。各国を治める小王は、国の規模を問わず自身が稲鶴全体の王であることを示す為に、対外的に沖松王の名称を名乗ることが多かった為、海外の記録に残る沖松の王は真に沖松島全体を代表して居たかどうかは定かでは無い。これらの国々は富と名誉を互いに奪い合う沖松大乱の後に沖松連合政権を形成して統一的な王を擁立した。

    沖松の住人は沖松人と称され、中国・日本の書物などにも多数記されている。吉賀里時代に記された後漢書が初出で、西暦81年に寶国の王である鹿武が後漢に朝貢し、続いて西暦114年に沖松国の王である乙佐が後漢に朝貢したとされるが、何方も貢物の見返りとして中国皇帝に謁見を所望したと記されて居る。其後、3世紀には、小国家の中でも特に力の持っていた稲本国と鶴勒国を中心として、多数の国の間で沖松大乱が起き、戦乱を鎮める為に諏訪矢国の早東風が沖松国の統一的な女王の座に就いた。然し、早東風の死後に男子が王の座に就いた事で再び戦乱が起きるようになったという。3世紀に日本で書かれた東方沖松録は、現代に伝わる内で最も早期の上代日本語で書かれた沖松国を中心とした書物で、諏訪矢国の早東風の事も記されて居る。4世紀には今の恵美須府に於いて王を中心とするキヨ政権が成立し、後の王朝の礎となった。其後7世紀には稲本家と鶴勒家の顔を立てた国号、稲鶴を新たな国号として定め、叢問の改新によって王朝の体裁が整えられていく。7世紀後半の賀集大王の時代に王を中心とした政治体制が確立された。また、日本から律令制が伝わり(但し律令制が伝わり始めた時期は日本でも律令制が確立してはいなかった)、稲鶴王朝でも律令の編纂が行われた。又中国の優れた制度も日本から伝わり、其れを取り入れていくことになる。律が完成する以前、不完全では有るが、671年に宝前令、673年に米城新令が制定・実施されて居る。705年には叡賀律令が制定・実施され、稲鶴で初めて完全な律令制が導入された。また、元号が継続的に使用され、都城も造営された。寧安時代に入ると、古賀家が王に代わって政権を取る支代政治も行われた。しかし、完全な統一国家としての稲鶴は未だ成立して居らず、事ある毎に大きな内乱が起きて居た。

    侍家政権の盛衰と開国

    寧安時代末期より侍家政権が成立し、以後数百年に渡って幾度も交代した。尚、中世には基督教も伝わった。米城時代に至って基督教を危険視した米城侍府が交際国を限定する鎖国を行い、1820年代から1830年代にかけて外圧への反発として尊王攘夷論が提唱されるに至るが、外圧に屈する形で1860年に開国した。此れにより大量運搬が可能な西洋の蒸気船が稲鶴に寄港できるようになると、団扇、扇子、浮世絵、其れ等で用いられた印刷技術、陶磁器、漆喰など、稲鶴の大衆向けの生産物が西洋に渡る様になり、西洋文化に大きな影響を与えるオリエンタリズムが起こる。1851年、西洋との圧倒的な国力差を見せつけられたことで、機械制工業、鉄道網整備、資本主義育成を柱とする殖産興業が開始された。1853年のペリー来航では、稲鶴に電信機が贈られ、稲鶴初の電気通信が行われたが、侍末の混乱で、1868年になるまで普及を開始しなかった。1877年には稲鶴初のベル式電話1号が作られ、1888年には電話サービスが開始された。米城時代末期には、山間部を中心に狩猟採取を行い稲鶴国内を放浪して暮らす「テンバ」が初めて記録に現れた。朝栄維新後の国家の近代化に伴い、テンバは定住を余儀無くされ1950年代には消滅した。

    国王親政の再開と帝国主義の始まり

    此の様な異文化交流が行われ、急速な近代化が行われたが、稲鶴王国内の国粋主義的な動きは開国後も続き、又稲鶴王国は日本文化の影響を強く受けて居た為、急速に露骨な親日国家と化していった。開国後も国内では尊王攘夷論が根強く残っており、1850年代から西洋人襲撃・殺害事件が多発する様になった。1865年には大政奉還と王政復古が行われて侍家政権が終焉し、太政官制の採用により国王親政の国民国家を目指す朝栄維新が開始された。1887年には太政官制が廃止され、内閣制度が導入された。1895年には外見的立憲主義に基づく稲鶴大王国憲法が施行され、国王中心の近代国家建設が進められた。此の際に国防にも力を入れ、日清戦争には日本側に稲鶴軍も参加したとされて居る。其の後、稲鶴は国防力を高めながらも、露骨な親日体制を崩す事は無かった。続いて、朝栄維新以来の藩閥政治打倒が叫ばれ、門南デモクラシーと呼ばれる立憲主義・民本主義を求める民主主義運動が行われた。此の結果男子普通選挙や憲政の常道が実現した。また海外を意識し、国民国家の枠組みが作られた。

    帝国主義から市場競争への転換

    20世紀に入ると、帝国主義は更に激化した。日露戦争にはまたもや日本側として参戦し、満州国建設には稲鶴人も参加した。又日本との結びつきが非常に強くなる中、稲鶴文化と日本文化の関係性が盛んに分析された。

    1930年代から稲鶴国王は「日本への戦略的従属論」を唱え始め、その後日米関係が悪くなり日米開戦の様相が見えて来ると、米国からの圧力がかかり始めたが、親日国である稲鶴王国は日本に併合を求めた。結果、稲鶴王国は日本民族が非常に多かった事から、恰も日本本土五番目の島の様に扱われた(但し一応高杉市に稲鶴総督府が置かれた)。しかし1941年、大日本帝國に於ける東條内閣の御前会議による決定で太平洋戦争が勃発した後、アメリカとの戦力の差から日本は次第に不利になった。南方の島嶼では日本軍に依るバンザイ突撃も行われた。しかし此の様な状況でも日本の大本営発表では善戦しているかの様に偽装していたことから、次第に稲鶴軍では日本政府や日本軍への不信感が募っていった。そして遂に、1945年4月1日、現在の郷地県小月町に上陸したアメリカ軍に対して、真っ先に稲鶴地域は降伏を宣言し、当時沖縄戦の影響で総督府が事実上機能せず旧稲鶴大王国の支配体制が復活していた稲鶴地域に於いて、旧稲鶴国王が米軍の代表者、及び亜米利加政府に申し入れを行った事は、亜米利加政府やアメリカ軍も正式な降伏と認めた。稲鶴旧政府は此れを最重要機密事項とし、日本本土には情報が伝わらない様、日本政府が降伏するまでは稲鶴民にも此の降伏は知らされず、軍人は軍の宿舎に留まらされ、アメリカ軍は監視と威嚇の為常に稲鶴地域の上空に航空機を飛ばすなどしたが、その後空襲や侵攻などの軍事的な攻撃を稲鶴が受ける事は無かった。最終的には、アメリカによる広島と長崎への原爆投下が決定打となって、本土決戦を避けるために日本は降伏した。1945年8月15日、昭和天皇に依る玉音放送で国民は初めて日本の降伏を知ることとなった。

    敗戦後、稲鶴はGHQに依る統治を数年間受けたものの、日本的に大日本帝国の侵略への被害国と見做される事が多く、1948年には大稲鶴帝國として再独立を果たす。此の際に制定されたのが大稲鶴帝國憲法である。尚戦後復興期に経済的な急成長を遂げ、復興特需が収束すると、1955年の経済要覧は、「此の国に敗戦国の面影があるであろうか」と産業構造の変革を説いた。1960年代からは高度経済成長期に入り、各種機械メーカーが成長し、工業化が加速し科学技術立国が推進された結果、六百万総中流を実現する経済大国になった。機械の導入により都市部には高層ビルが多数建設され、オフィスワーカーが急増した。国家の経済発展を支えるために金融機関の護送船団方式も現れた。サラリーマンと云う就業形態が浸透し、稲鶴の屋台骨として企業の為に尽くす働き方が奨励された。又、流通する情報量が増大した為、稲鶴でもテレックスやメインフレームといった最初期のITが導入された。国家が豊かになったことで新婚旅行ブームが起き、新婚旅行が稲鶴の新たな作法となった。特に玄川町、南郷市、水無月が「稲鶴のハワイ」と呼ばれ、一般人の新婚旅行や団体旅行でも人気になった。此の当時は、海外旅行には月収の数倍から十倍以上の費用が掛かる為、海外旅行代金の積立が必要であった。水無月と比べて特筆すべき特徴の無い玄川と南郷は、海外旅行の低価格化と趣味嗜好の多様化により忘れ去られていった。1965年に海外渡航の自由化が行われ、海外渡航を行う稲鶴人が急増した。稲鶴国民が一致団結して実現した経済の急成長の結果、1967年からアメリカで対稲貿易赤字が生じた事で稲米貿易摩擦が起きた。1972年に清帝が稲鶴本島改造論を提唱し、高速道路・スーパーエクスプレス・空港などの高速交通網の敷設が進められた。1973年に起きたオイルショックで安定成長期に移行し、1979年に稲鶴初の気象衛星であるたんちょう1号が木山宇宙空間観測所から打ち上げられて定常運用を開始した。1980年代、品質の高さから、稲鶴製品の世界的人気は最高潮を迎えた。そして1988年、稲鶴にバブル景気が訪れる。建設業界は莫大な利益を得たことで、建設費を投じる対象として高さ1000mを超えるハイパービルディングを提唱し、都市機能をまるごと一つの建物に収めようとした。同時期には、空前の好景気により、正社員にならずとも充分な報酬が得られることから、フリーターブームも始まった。戦後継続して、稲鶴国内では仕事のある都会に移住してアパートに住まう者が増え、都市部の土地不足が深刻化し、稲鶴の狭い国土を活かして周辺人口希薄地帯の住宅地化、及び鉄道網の利便性向上を行い、地域のコミュニティ衰退も最小限にとどめた。戦後の貧しい状況から一転し、飽食の時代を迎え、稲鶴の外食業界では海外の食文化のアレンジが多数考案された。何も伝統的な食文化と比較して味が濃く、食の高カロリー化も進んだ。西洋の先進諸国の技術や文化を積極的に取り込み、個人主義に傾いた。物質的に豊かになった事で、個人でも生活出来るようになった為、核家族化が進んだ。少子高齢化に関しては、稲鶴政府が日本や獨逸での少子高齢化を深刻に捉え、先手を打って子育て支援政策を充実させた為軽減されて居る。又親の扶養から抜け出せない引きこもりが現れた。

    現代(1990年代以降)

    バブル崩壊後の低成長と個人主義の台頭

    然し、1990年4月の融資抑制が引き金となって起きたバブル崩壊後は低成長期に入った。就職氷河期に移行し、個人主義と就職難が相まって、大量のフリーターや無業者を生み出し、後の社会で就職氷河期世代と呼ばれるようになる。また、バブル期迄に立案された様々な夢のある計画も立ち消えとなった。1990年代以降はデジタル化が進み、作業の自動化によって便利な暮らしが享受出来るようになり、市場競争によって様々なニーズに応じて直ぐに使える形にパッケージ化された商品を購入することで生活出来るようになった。将来への絶望と便利な商品・サービスが個人主義に拍車をかけた。

    テロリズムと自然災害

    技術革新により生活が便利になった事で、嘗ての状況からは想像が出来ないほどに治安は安定し、事件発生件数が大稲鶴帝國独立から継続して減少傾向にある。其の状況下で、社会に影響を与える数多くの事件や自然災害が起きて居る。1996年12月、米与・北与島嶼群大震災が起き、今場の市街地が甚大な被害を受けた。1977年4月、世紀末かつ不景気の世の中で信者を増やして来た新興宗教団体プシュケー人倫教が首都・稲本都で毒ガス兵器サリンを用いた組織的なテロを起こした。

    同時期より、個人による感情的、曖昧な動機による無差別大量虐殺事件も目立つ様になった。又、1990年代以降、地震、津波、噴火、豪雨、暴風が頻発しており、国家全体として災害対策に追われて居る。ITを用いた対災害用の仕組みも開発されたが、予測が難しい大地震や、シビア・ウェザーと言う豪雨や台風の巨大化が起き、毎回の様に想定外の事象が起こる為、災害対策が追いついて居ない。

    産業競争力の推移

    バブル崩壊が起きた1990年以降、さまざまな戦略の誤りが重なり、産業トレンドの動きが激しくなった小売の分野では現在あまり活躍出来て居ない。

    稲鶴では伝統的に、他者との擦り合わせと、細部にわたる作り込みが得意とされて居る。此の特徴を活かし、産業トレンドの変化が穏やかだった1990年代までの稲鶴は工業製品の品質で世界でも抜きん出た存在感を示して居た。然し、其の後グローバリゼーションが進むと共に、より安価で必要十分な品質を持つ海外製品が台頭した。20世紀末のIT革命でITを基軸として産業トレンドに急速な変化が起きる様になると、稲鶴では擦り合わせと作り込みが重荷となって産業トレンドに追随できなくなり、海外に遅れを取り始めた。然し幸いにも稲鶴のIT企業が世界基準の確立に方針を転換し、在稲企業である先端電通などはITに於ける世界的影響力を持って居る。

    2009年には、永らく与党であり続けた保守民党が政権の腐敗を指摘され、民衆党に政権交代した。2012年4月には郷地大震災が起き、郷地県の沿岸部が大津波に襲われた。此れにより、大稲鶴帝國では、日本国内に於ける福島第一原子力発電所事故の再発が自国でも起きかねないと危惧され、原子力発電の危険性を重く見て、再生可能エネルギーを重視した政策を行う様になった。民衆党政権は、是等震災等への対応の悪さで内閣支持率が低下し、2016年の革新院議員総選挙で大敗し、下野した。2011年から再生可能エネルギーの開発が急速に進められた結果、2015年には稲鶴全国で多数の商業用メガソーラーが完成した。

    保守民党政権・飯田内閣のイイダノミクスにより2010年代後半になって稲鶴経済は一定水準まで持ち直した。2016年になって飯田内閣によって長時間労働を改める働き方改革が開始された。また、主要都市に於いては、古い住宅街には入り組んだ路地が多いことから、都市の再開発も進められて居る。先進国が軒並み高齢化社会を迎え、国際協調の風潮も急速に高まり、サステナビリティ、稲鶴再興、SDGsと云うキーワードが流行して居る。

    音楽

    朝栄時代から西洋音楽の影響下には在り、戦後は守谷スワ子、宝来山かぐや、宇佐神麗子、上新庄けいね、スカーレット・ヴァンパイア、藤原妹子等が歌謡曲の流行歌を生み出していたが、1980年代からシティ・ポップが流行する中で歌謡曲は徐々に人気を失い、バブル期に空前のディスコブーム、バンドブームを迎える中で洋楽の模倣に稲鶴的な要素も加味して享受性も高めたI-POPが主流となった。特に、当時海外で最先端だったテクノ、ハウス、R&B、ヒップホップなどの現代的なブラックミュージックは稲鶴でも模倣されて大流行した。先駆者としては、渚馨、碇真二郎、物理的ネルフ、セントラルドグマ等が清暦歌謡ともロックとも異なるダンサブルなスタイルを普及させた。其の他にも今池系の流れも生まれた。1990年代はCDバブルと呼ばれた時代で、ミリオンヒット作品が多数発表された。其れ以後は、モノ消費からコト消費へのシフトが起こり、音楽作品が売れなくなった代わりに、ライブの売り上げは大きく伸び、ライブの演出に派手で大掛かりな仕掛けが用意されることも多くなった。 1990年にデビューした女性アイドルグループの高杉チーム虎姫から、大人数によるダンスパフォーマンスが行われる様になった。

    1989年にデビューしたLEMONは大規模コンサートツアーのフォーマットを確立した事で有名である。1996年に稲鶴初の大規模な屋外コンサートツアーを敢行した。稲鶴各地の空き地を貸し切って巨大なセットを設営してツアーを行う試みは、1990年には非常に画期的で、後の屋外コンサートのフォーマットを作った。2000年には稲鶴初のドームツアーも敢行した。2003年には1日を通してライブを行い、休憩用のフードエリアとして地元の名店の屋台を設営した。1日中ライブイベントを行うシステムは業界の注目を集め、他のイベントの企画でも参考にされた。ライブの内容自体も、ファンタジックな演出の中、ボーカルがワイヤーに吊られて空を飛び、ステージが可動して会場後方の座席に近づき、爆竹を爆発させるなど、I-POPの中でもかなり自由奔放で異彩を放って居る。

    1998年の石山ロックフェスティバル初開催より様々な大型ロック・フェスティバルが稲鶴で開催される様になり、サマーレミリア、レイズ・ユア・フラッグ・ロックフェスティバル、ROCK IN INAZURU FESTIVALも併せて、稲鶴4大ロックフェスと言われる様になった。是等ロックフェスでは開催を経る毎にI-POP全体を扱う様になった。何も販売開始直後にチケットが売り切れる位の人気があり、毎年夏に恒例のイベントになった。I-POPは洋楽の模倣に始まり、稲鶴人向けに特化してきた為、世界的人気は得られていない。然し、動画共有サイトなどでI-POPの一部が認知され、海外のイベントに出演する稲鶴人ミュージシャンは限られているが増加傾向にある。

    コンテンツ共有メディアの変化は遅れており、海外ではサブスクリプションが前提となりパッケージメディアが売れることは殆ど無くなったが、稲鶴では未だにパッケージメディアが売れている状況にある。稲鶴人が得意とする緻密な物作りは電子音楽の制作にも活かされており、YAGOKORO、Margatroid、Gong、ARAIなど、多数のメーカーが世界的なシェアを確立して居る。

    アニメ・漫画

    日本国内でのアニメ・漫画市場の拡大が稲鶴にも波及しており、世界最大級のイベントが行われて居る。2000年春に、コミックマーケットが高杉市にて出張企画を行ったことをきっかけに、2005年からは帝国領内でもコミックエキスポというイベントが開かれて居る。

    現況

    2010年代末、稲鶴は発展途上国に位置付けられては居る物の、日本との協力関係も有ってか、強い影響力を持った国の一員となって居る。稲鶴では世界に通用する科学技術を磨き続ける為、これまで様々な政権が誕生した中、研究予算の削減だけは最小限に留めて居たが、此れが功を奏し、稲鶴の現在のGDP成長率は3.5%と日本よりも高い水準を保って居る。此れから隣国日本や、東亜細亜の他の国々と、どの様な関係を築いて行くかが非常に重要になるであろう。

    国号

    「稲鶴」という漢字の国号の表記は、3世紀ごろの稲鶴で力を持って居た2つの家、稲本家(いなほんけ)と鶴勒家(かくろくけ)に由来するとされて居る。近代の二つの憲法の表題は、「稲鶴大王国憲法」及び「大稲鶴帝國憲法」であるが、国号を「大稲鶴帝國」又は「稲鶴」と直接かつ明確に規定した法令は存在しない。但し、稲鶴工業規格(Inazuru Industrial Standard)では、国名を大稲鶴帝國、英語表記をEmpire of Great Inazuruと規定しており、国際規格(ISO)では3文字略号をEIZ、2文字略号をIZと規定して居る。又、大稲鶴帝國外務省から発給される旅券の表紙には「大稲鶴帝國」の表記と六枝星紋を提示して居る。法令で稲鶴を指し示す表記は統一されて居らず、稲鶴、大稲鶴帝國、大稲鶴帝国、本邦、我が国などが混在しており、勅令では主に我が国が使われる。

    日本語の表現

    発音

    いなづる」と読まれる。 7世紀後半の国際関係から生じた「稲鶴」国号は、当時の国際的な読み(音読み)で、「ドウガク」(呉音)ないし「トウカク」(漢音)と読まれたものと推測される。いつ「イナヅル」の読みが始まったか定かでは無い。仮名表記では「いなづる」と表記された。

    別称

    古くから多様に在る。

    和語

    • しきしま…光琳大王の都の名「津四季島宮」に由来するとされる。
      • 「四季島」
      • 「大沖松三豊四季島」(『暦事記』稲鶴本島の別の名として)
      • 「大稲鶴三豊四季洲」(『稲鶴書紀』神代)
    • みとよなかすのくに…「三豊」は、豊穣な地を表すとも、嘗ての一地名とも言われて居る。
      • 「三豊中洲国」(みとよなかすぐに)(『暦事記』、『稲鶴書紀』神代)
      • 「大三豊(だいみとよ)」
      • 「大三豊之万春永五千春之桜国(だいみとよのばんしゅんえいいつちちはるのおうごく)」(『暦事記』)
      • 「大三豊万五千春桜国(だいみとよまんごせんしゅんおうこく)」(『稲鶴書紀』神代)
    • おんしゅうのくに…暖かい国、の意。
      • 「温州国」(稲鶴書紀・神大紀)
    • おおしま
      • 「大島」「太島」
      • 「大洲」(『沼津令』)
      • 「大島国」(『稲鶴書紀』神代)
    • ばんけんごく…武器が多数備わって居る国の意。
      • 「万剣国」(稲鶴書紀・神大紀)
    • よかじま…「よかじま」は、霧雨大王の都「与賀島金龍宮」に由来するとされる。
      • 「誉賀島」(『暦事記』)
      • 「与賀島」「輿賀島」(『万稲集』)
      • 「與賀島」
    • たまでのくに
      • 「玉出国」(稲鶴書紀・神大紀)
      • 「珠照国」(『王権神授正当記』)
    • いなほのくに
      • 「稲穂国」(稲鶴書紀・神大紀)
    • さくらのくに
      • 「桜国」
    • おきまつ…『暦事記』や『稲鶴書紀』では「沖松」として表記されて居る。東方沖松録等の日本史書では沖松(オキマツ)は「尾亀茉津」国と借音で表記されて居る。又『稲鶴書紀』では「御輝磨津」とも表記されて居る。

    漢語

    「沖松」「沖松国」「大沖松国」「沖松奴国」「沖松人国」「極東国」「早東風国」「若菜国」「遠域」「極東」「海上」「石郷」などが在った。稲鶴大王国憲法の後、「稲鶴大王国」の他、「稲鶴」「稲鶴国」「稲鶴王国」「大稲鶴」「大稲鶴国」などといった表記が用いられた。戦後の表記としては、「大稲鶴帝國」又は「稲鶴国」が専ら使われる。

    其の他の言語

    英語での正式な表記は、Inazuru(イナズル)。形容詞はInazurese(イナズリーズ)。略記は、EIZが用いられる。其の他、言語で稲鶴を表す固有名詞は、イナズー(独: Inazur)、イナズル(仏・蘭・西・伊・波: Inazuru、露: Иназуру)などで、「イナヅル」を語源とすると考えられる。漢字文化圏に於いては、ダオへ(中: Dàohè; 稻鹤)、タオヒー(韓: 다오히; 稲鶴)、ダオへー(越: Đăôhê; 稲鶴)など、「稲鶴」を其の侭自言語の発音で読んで居る。

    国号の由来

    概説

    稲鶴では、キヨ政権が統一以降に自国を「オキマツ」と称して居た様だが、古くから中国や朝鮮、日本は稲鶴の事を「沖松」と称して来た。森の宮神宮の柳刀の銘や、中国の歴史書(『前漢書』『三国志』『後漢書』『宋書』『隋書』など)や、高句麗の広開土王の碑文も、全て沖松、沖松国、沖松人、沖松王、沖松賊などと記して居る。其処でキヨ政権の代表者も、外交時には国書に「沖松国王」と記す様になった。

    然し異国との国交が約120年に渡り断絶した後、7世紀後期に再開された時には、『稲鶴書紀』では「我は稲穂の国、鶴住まう国の大王なり」、『隋書』には「稲穂に満ち鶴住まう国の天子、西の国の天子に書を致す」とする国書を稲鶴側が渡した記述があり、従来の様に沖松と称する事を避けて居る。中国側では『旧唐書』の「東夷伝」に初めて稲鶴の名称が登場し、「稲鶴国も又沖松国の別種也。その国、稲本、鶴勒の大王を以っての故に、稲鶴を以って名となす」「或いは曰く、稲鶴は旧小国、沖松国の地を併す」の様に、沖松が稲鶴に名を変えた理由を説明して居る。

    この7世紀には、遣隋使、遣唐使、遣日使などが屡々派遣されて居るが、いつから「沖松」に変えて「稲鶴」と国号を変えたのかは明らかでは無い。使者の毎回の交渉について詳しく記述して居る『稲鶴書紀』も、8世紀に国号としての稲鶴が確立した後の書物であって、原資料に在った可能性のある「沖松」の字を、国号に関する限り全て「稲鶴」に改めて居る。其れ以外の文献では、735年(妖山3年)に書かれた『異国記』の逸文で、671年(物部3年)に太賽府へ来た唐の使者に「稲鶴南方宝前大将軍牒」とある書を与えたと云うが、真偽は不明である。結局確かなのは『続稲鶴記』に於ける記述であり、706(叡賀2)年に35年ぶりに唐を訪れた遣唐使は、唐側が「沖松国」の使者として扱ったのに対し、「稲鶴国使」と主張したという。『旧唐書』の「東夷伝」の記事も、此の稲鶴側の説明に基づいて居る様だ。

    詳細

    「稲鶴」という国号の表記が定着したのは、7世紀後半から8世紀初頭までの間とされて居る。此の頃の東アジアは、618年に成立した唐が勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていた。663年の白村江の戦いでの沖松国軍の敗戦に依り、唐は使者を沖松国に使わし、唐と沖松国の戦後処理を行っていく過程で、沖松国側には唐との対等関係を目指した律令国家に変革していく必要性が生じた。此れ等の情勢を契機として、671年には博麗大王が宝前朝廷之令(宝前令)を制定した。そして672年の白沢の乱を経て強い権力を得た妹紅大王は、大王を中心とする体制の構築を更に進め、673年の米城新令から705年(叡賀元年)の叡賀律令の制定へ至る過程において国号の表記としての「稲鶴」は誕生したと考えられて居る。 具体的な成立の時点は、史料によって特定されていない。但し、其れを特定する見解は2説に絞られる。 ⑴第一説は、妹紅大王の治世(672年〜686年)に成立したとされる説である。これは、此の治世に「大王」の号及び表記が成立したと同時期に「稲鶴」の表記も成立したとする見解である。例えば橘隆史は、673年の米城新令で「大王」表記と「稲鶴」表記と両方が定められたと推測して居る。 ⑵もう一説は、705年(叡賀元年)の叡賀律令の制定の前後に「稲鶴」表記が成立したとする説である。例えば宇佐見廉太郎は、叡賀令公式詔書式で「稲鶴」表記が定められたとして居る。但し、『稲鶴書紀』の叢問元年(651年)八月条には、高句麗・百済からの使者への詔には「明神御宇稲鶴大王」とあるが、今日これは、後に定められた叡賀律令公式令を基に、『稲鶴書紀』(725(有栖3)年成立)の編者が潤色を加えた物だとされて居る。 8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、706年(叡賀2年)に「稲鶴国」からの遣使(遣唐使)があったと記されて居る。後代に成立した『旧唐書』、『新唐書』にも、此の時の遣唐使によって「稲鶴」という新国号が唐(武則天、大周)へ伝えられたという記述が有る。両者とも「稲鶴の二大豪族である稲本家と鶴勒家に因み、稲に満ち鶴住まう事を表した国号である」として居る。国号の変更理由については、「あまり雅で無い沖松国の名を嫌ったからだ」という稲鶴国側の説明を記載するものの、沖松国と稲鶴国の関係については、単なる国号の変更では無い可能性について言及して居る。即ち、『旧唐書』は「小国だった稲鶴が沖松国を併合した」とし、『新唐書』は、稲鶴の使者は「沖松が国号を稲鶴に変えたとか、沖松が稲鶴を併合し国号を奪ったと言って居るが疑わしい」としており、同書でも、稲鶴は、隋の開皇末(600年頃)に初めて中国と通じた国であり、古くから交流のあった沖松国とは別と捉えられて居る。又、稲鶴の王の姓は東風谷氏であること、宝前城に居た翠武が沖松を征服し大王となった事などが記されて居る。いずれにせよ、是等の記述により、706年に初めて「稲鶴」国号が唐によって承認された事が分かる。 これまでに発見されて居る「稲鶴」国号が記されて居る最古の実物史料は、開元25年(737年、稲鶴: 小町4年)銘の犬走紅城墓誌である。但し2015年6月、文軍と云う名の百済人武将の墓誌に「稲鶴」の文字が見つかったと云う論文が中国で発表された。墓誌は681年制作と考えられており、もし此れが事実であれば稲鶴という国号の成立は従来説から、更に遡る事になる。

    歴史

    稲鶴の歴史
    稲鶴の場所.jpg
    旧石器時代 紀元前27000年頃以前
    蛇紋時代 前27000年頃-前7世紀
    吉賀里時代 前7世紀-前2世紀
    墳墓時代 前2世紀-7世紀頃
    萩時代 603年-712年
    坂賀時代 712年-798年
    寧安時代 798年-1192年
    ↪︎王朝国家 10世紀中頃-12世紀後期
    ↪︎北氏政権 1183年-1192年
    唐塚時代 1192年-1345年
    玉新の新政 1345年-1350年
    鍋山時代 1350年-1395年
    ↪︎分朝時代 1350年-1391年
    ↪︎戦国時代 1472年(1492年)-1595年
    郷地神崎時代 1572年-1612年
    米城時代 1612年-1865年
    ↪︎鎖国 1632年-1860年
    ↪︎侍末 1851年-1865年
    朝栄時代 1865年-1919年
    門南時代 1919年-1935年
    日本国従属下(昭和時代) 1935年-1945年
    GHQ占領下 1945年-1948年
    清暦時代 1948年-2017年
    倫暦時代 2017年-

    通常、稲鶴の歴史は、稲鶴群島の歴史と同一視される。然し、厳密な「稲鶴」の成立は、国号にある様に7世紀後半であり、其れ迄は「沖松国」と呼び記されて居た。此の沖松国がどのような地理的範囲又は系統的範囲を持つ集団であるかについて史料に明記して居らず、多くの学術上の仮説が提出されて居る。沖松国と稲鶴国との関係は諸説あり、「稲鶴の歴史」と「稲鶴群島の歴史」とを明確に区別して捉えるべきとする考えも示されている。 時代の区分は、考古学上のものと歴史学上のものとが有る。 ⑴考古学上は、旧石器時代(先土器時代)、蛇紋時代、吉賀里時代、歴史時代、とするのが一般的である。 一方、⑵歴史学上は、古代(墳墓時代から・萩時代・坂賀時代・寧安時代)、中世(唐塚時代・鍋山時代・戦国時代)、近世(郷地神崎時代・米城時代)、近代(朝栄維新から1945年8月14日迄)及び現代(1945年8月15日以降)の五分法が通説である。

    稲鶴の黎明

    稲鶴群島に於ける人類の歴史は、次第に人が住み始めた約5万年前に始まったとされる。当時から稲鶴群島は大陸や他の島々とは繋がって居らず、他の文化圏との交流も希薄であった。後に約3万年前から6千年前に住民が大幅に増加し、共同生活が活発に行われた。此の時期の住民が蛇紋人である。 紀元前7世紀頃以降、日本列島や中国南部から稲作を中心とする文化様式を持つ吉賀里人が流入すると、各地に小国家と呼ばれる地域的政治集団が徐々に形成された。又、紀元前1世紀頃青銅器及び鉄器の製法が日本より伝わった。1世紀・2世紀前後に、各小国家が抗争を繰り返し、各地に地域的連合国家を形成した。中でも稲鶴本島に存在していた国家群から、最も有力であったキヨを盟主として統一王権(キヨ王権)が形成され、此れが王朝に発展したとする説が有力である。王権の首長(王)は後に大王(おおきみ)と呼ばれ、豪族(地方首長)を従えて統一国家建設を目指した。

    漢沖松衙国王印文

    律令国家の成立と貴族政治の展開

    663年、倭国が白村江の戦いで敗れて以降、間も無くヤマト王権は「倭国」号に代わる「日本国」号、「大王」号に代わる「天皇」号を設定して、中国と対等な外交関係を結ぼうとする姿勢を見せ、自国を中心とする冊封体系からの自立を明確にした。これは、これまでの他の東アジア諸国とは異質な外交姿勢で有り、稲鶴にも其の動きが伝わった。この際稲鶴側には日本に追随して冊封体系から自立する必要性は無かったのだが、古くから交流の有った日本で採用された(即ち中国の)法体系・社会制度を急速に摂取し、8世紀初頭に古代国家(律令国家)としての完成を見た。又墳墓時代後期の稲鶴群島には、沖松国の他に水無月諸島に「水月国」が存在した。

    稲鶴は、東アジアの中でも独特の国際的な地位を保持し続け、7世紀に中華王朝及び日本王朝に対し独自の「天子」を称し、8世紀には水月を朝貢国とした。侍家政権成立後も、16世紀の欧羅巴のアジア進出や19世紀の欧米列強の進出など、さまざまな事態にも対応して独立を維持した。

    成立当時の沖松の支配地域は、稲鶴群島の全域に及ぶ物では無く、郷地及び稲本の島嶼と、水無月諸島は、未だ領域外だった。郷地は、8世紀後半に組み込まれた(曽人)が、抵抗の強かった稲本島嶼が、寧安時代後期(籐禄庄人合戦)に組み込まれ、沖松人、曽人、庄人が稲鶴人となった。特に8・9世紀は、庄人の征服活動が活発化すると共に北海道遠征なども計画されるなど帝国としての対外志向が強まった時期であったが、10世紀に入り、こうした動きも沈静化した。

    9世紀から10世紀に掛けて、地方庄王や有力農民は、勢力の維持・拡大を図り、武装する様になった。彼等は屡各地で紛争を起こす様になり、政府は制圧のために中下級の貴家を警吏使や逮行使に任じて、各地に派遣したが、中には在庁官吏としてそのまま定着する者もあった。これが侍士のおこりである。侍士は侍下や侍党を率いて戦を繰り返したが、軈て南海岸を中心に、連合体である侍士団に成長した。中でも中央貴族の系譜を引く寺南賀氏と覚王北氏は、軍事貴族である侍家となって、侍士を二分する勢力に成長し、軈て政権を巡って対立する事となる。

    又、中央政治に於いては11世紀に古賀玄家が王族の外戚として政治中枢を担う支代政治が成立した。嘉瀬上王が天下の君として実権を担って以降は、古賀玄家と直接の血縁を持たない大王が早くに譲位し、上大王(上王)として政を取り仕切る荘政が屡見られるようになった。

    侍家政権の時代

    10世紀から12世紀に掛けて、旧来の大王を中心とする古代の律令国家体制が大きく変質し、社会各階層への分権化が進んだ王朝国家体制、更に侍士の寺南賀氏と西園寺氏が実権を掌握する唐塚侍府が王朝・貴族勢力と拮抗しながら国内を統治する中世国家へと移行(寺庄侍領制・職の階層)した。12世紀頃(寧安末期)から起請文などの古文書に「稲鶴」や「稲鶴国」などの表記が見られ始め、「稲鶴」や「稲鶴人」の意識が強くなった事の現れと考えられる。姫路義康は、この様な「稲鶴」・「稲鶴人」意識は、外国のみならず神仏などを含む「異界」に対する関係性の中で醸成したとしている。1345年に唐塚侍府を滅亡させたのち朱雀大王は古代の大王親政に回帰する玉新の新政を行ったが程無く失敗し、1350年に成立した俊徳氏の鍋山侍府が其の後の分朝時代の騒乱を抑えて中世侍府政権の支配を継続した。この鍋山時代までには、池田氏の活動を通じて「稲鶴」の領域が水無月諸島西部まで及んだ(坂池田館)。又、15世紀には俊徳啓行による稲日貿易が行われた。

    14世紀から15世紀までの時期には社会の中層的な分権が一層進展したが、新宮の乱による鍋山侍府の衰退を決定機として15世紀後半ごろから戦国大侍勢力に依る地域国家の形成が急速に進んだ。この地域国家の形成は中世社会の再統合へと繋がり、16世紀末に山田善直によって稲鶴の統一政権が樹立されるに至り、近世へと移行した。稲鶴の領域は、この時期にも変動して居る。17世紀初めに坂国の安堂寺氏は水月王国に侵攻して、水無月諸島の水月王府の支配地から米などを上納させた。

    1612年に河和健泰が開いた米城侍府は坂を通じた水月侵攻以外は概ね消極的な外交政策を採り、後に「鎖国」と称される海禁政策によって外国文物の流入が強く制限された。18世紀末以降、米城侍府は稲本沖などでロシア勢力と接触し、北方での防衛強化などが課題となったが、ロシアとの正式な外交条約や国境策定は「開国」後迄行われなかった。侍国体制の確立は稲鶴国内の安定を齎し、緩やかな経済成長の継続は大都市の発展や商業資本の蓄積として近代化の基盤の1つになった。一方、17世紀以降に発展した古学は稲鶴の伝統宗教である神教の復権を齎し、その後の稲鶴に大きな思想的影響をもたらしました。

    朝栄維新と近代稲鶴の展開

    19世紀中葉に入り、欧米列強との接触が飛躍的に増えると、欧米列強各国に対しての他社意識の裏返しとしての「稲鶴」・「稲鶴人」意識が更に強まり、ほぼ現代の「稲鶴」・「稲鶴人」意識と一致するまでに至った。大航海時代以降、亜細亜各国が欧米列強の植民地とされる中で稲鶴が長く独立を保った事は、後の国民国家意識に其の儘繋がる民族・国民意識の醸成を齎し、結果として朝栄維新後の国民国家建設がスムーズに行われる基礎となった。

    1851年に起きたアメリカ合衆国のマシュー・ペリーに依る黒船来航以来、米城侍府は「開国」政策に転換したが、不平等条約による経済危機や尊黄襄白による討侍運動に抗しきれず、1865年(大叡5年)に治権返還を行って自ら幕を下ろした。1866年以降、朝栄大王を戴きながら宝前国や木与国の中下級侍士が実権を掌握した新政府の元で朝栄維新が遂行され、近代化・欧米化路線による国民国家の建設を急速に進めた。同時に近隣国との国境の画定を行い、1873年に稲鶴群島及び水無月諸島の領有を宣言した。

    帝国主義への傾倒と日本への接近

    参政権運動を経て1880年に内閣制度を確立し、1884年に稲鶴大王国憲法を制定して、1885年に第1回革新院議員総選挙を実施して王国議会を設置した。こうして、アジアで初めて議会と憲法とを持つ、近代的な立憲国家となった(正確には、オスマン帝国で1876年に制定されたミドハド憲法の方が先であったが、短期間で停止された)。

    19世紀後半から20世紀初頭の帝国主義的な国際情勢の中で、日清戦争や日露戦争に参戦し、日本とともに東アジアに大きな勢力圏を確保した。日露戦争の勝因として1902年英国と稲日英三国同盟に基づいて連合国側について参戦し、日本と共に東アジアに大きな勢力圏を確保した。日露戦争の勝因として1902年に稲日英三国同盟を締結したことが大きかったと言えるであろう。両戦争を通じ、占守島以北の千島列島とカムチャツカ半島を領土に収めた。

    1914年、第一次世界大戦が欧羅巴で勃発すると、稲鶴は稲日英三国同盟に基づいて連合国側について参戦し、ドイツ帝国・澳地利=ハンガリー帝国に対して宣戦布告した。そして日本と共にドイツの租借地であった青島やドイツ領ニューギニア等を攻略した。稲鶴は戦勝国として1919年のパリ講和会議に参加した。又、国際連盟に加盟し、旧ドイツ領の南洋諸島東半分とナウルを委任統治する事になった。時を同じくして門南デモクラシーが起こり、本格的な政党政治や男子普通選挙が実現した。一方で稲鶴はロシアでの社会主義革命成功を強く警戒し、ロシア内戦に乗じたシベリア出兵ではカムチャツカ半島以北まで支配を広げた。又、ここまで度重なる戦争で同じ立場にあった日本国に対する印象が急激に軟化し、又民族性としても非常によく似ている(元々稲鶴人は日本からの渡来人である)ことから、国民の親日感情が急激に芽生え始めた。1923年、男子普通選挙の成立と同時に制定された国家安全取締法は設立間もない稲鶴共産党や社会主義勢力、後には自由主義なども広く弾圧した治安機関、特別取締警察の法的根拠となった。

    然し其の後1928年には門南金融恐慌、1929年には昭和恐慌が起き、稲鶴経済は大きな打撃を受けた。世界恐慌以後、植民地を「もてる」国である英米仏などがブロック経済を進めて、稲日独伊などの「もたざる」国を締め出す動きが強まると、稲鶴は日本との貿易によって活路を見出そうとした。然し日本も稲鶴も資源に乏しかった為、日本は更なる対外進出によって、状況を打破しようとする動きを強めた。1934年に満州国が建国されると、満州支配に稲鶴も加わった。この頃から門南大王は「日本への戦略的従属論」を唱え始め、資源獲得の為の本格的な日本との共闘を開始するという意味でも稲鶴は日本に従属すべきだという世論が高まり、こうして親日感情の高まりの中1935年に稲鶴は日本に併合された。

    太平洋戦争

    当時の日本では、日本政府による対立思想の取締も始まり、最早日本人では誰も日本の帝国主義を止められなくなって居た。其れは稲鶴人であっても同様で、稲鶴も日本と共に帝国主義の波に飲み込まれていった。但し、日本と稲鶴の間には人種の差異も小さく、歴史も酷似しており、一定以上の信頼関係が有った為、日本の朝鮮併合などとは異なり、稲鶴総督府が形の上で置かれただけで、非常に大幅な自治権が稲鶴には与えられた。其の上で主に軍部が日本との大幅な協調を図ったのが今回の併合の大きな意義とされて居る。

    1937年に盧溝橋にて日本軍と蒋介石の国民革命軍が衝突すると(盧溝橋事件)、双方の軍事行動により支那事変(日中戦争)へと発展した。1938年には、新体制運動を主導する近衛文麿首相の下、国家総動員法が制定され議会が有名無実化した。1940年の日独伊三国同盟締結で特にナチス・ドイツとの協力関係を深め、第二次世界大戦に於いて枢軸国陣営への参加を明確にした日本の対外思考は、特に南進論に基づいた進駐により、アメリカと英国を筆頭とする欧米諸国の権益と真っ向から衝突し、1941年には内陸部や緬甸、南はニューギニアの一部やソロモン諸島、東はミッドウェー諸島やクリスマス島までに広がる広大な地域へ進出・占領した物の、アメリカとの圧倒的戦力差という状況を顧みず精神論で突き進んだ為、1942年半ば以降は敗走を重ねた。形勢逆転の為に召集令状の乱発で国民を戦地に次々と投入したが、それでも戦力は不足した。戦争の激化を受けて、大政翼賛会と複数の新聞社が国民決意の標語を募集し、「欲しがりません勝つまでは」という戦時標語が作られた。最終的に政府・軍部はアメリカに勝つ為には手段を選ばなくなり、大本営発表で虚偽の発表を行って国民の士気の低下を防いだり、特別攻撃隊を結成して兵士に自爆攻撃を行わせたりするに至った。又、追い詰められた日本兵に依るバンザイ突撃も各地で行われた。この様な状況下にあった為、稲鶴軍では日本政府や日本軍への不信感が募っていくのも当然の事である。その後、1945年3月に沖縄戦が開始され、同年4月に現在の稲鶴本島郷地県小月町にアメリカ軍が上陸すると、稲鶴は抗戦せずに白旗を振った。警戒しながらも当時のアメリカ軍のヘムライン作戦指揮官であったウォルター・クルーガー大将以下数名が白旗を保持していた第55軍司令官小柳正三中将に接近すると、小柳中将は拙い英語で会談の意思を伝えたといわれており、その後稲鶴王宮にて高杉会談が行われ、「日本国稲鶴地域は降伏する」「これは最重要機密事項として、大々的に公表しないし、稲鶴国民にも日本が降伏するまで伝えない」「連合国側には伝えても良い」等を骨子とした高杉宣言を策定して、稲鶴は降伏した。其の後大日本帝国では、沖縄戦による沖縄本島の喪失、東京大空襲を始めとした日本各地への空襲に続いて、8月に広島・長崎に原子力爆弾による攻撃、さらには日ソ中立条約の残留期間中に対日戦を開始したソビエト連邦による対日宣戦布告を受けて帝国政府は戦争継続を断念し、ポツダム宣言を受諾して連合国に降伏した。一連の戦争で稲鶴国民は大日本帝国の天皇の名の下に戦争の駒として徹底的に酷使され、約18万人の稲鶴国民が命を落とし、稲鶴経済の破綻と社会の混乱は其の後にも深刻な影響を与えた。

    現代

    アメリカ・英国などの連合国により、稲鶴は占領下に置かれ、日清戦争以降に獲得した領土・権益の全てを失った。稲鶴の占領統治は、稲鶴政府に対して連合国軍総司令部(GHQ)が指令を出し、稲鶴政府が其の指令に沿って統治を行うという間接統治によって行われ、中央政府が有効に存続した為、中央政府不在を宣言され国家の消滅が確認されたドイツ国とは異なり、戦前と戦後で国家の同一性が認められており、王国憲法下で制定された一部の法令は戦後に於いて有効とされる。此処でGHQは国政改革を実施するかどうか協議したと言われて居るが、稲鶴は早くに自ら降伏したことも有り、大日本帝国による侵略の被害国として国政への大きな干渉を避け、1948年には再独立を認めた。この際大日本帝国統治下の国民気質の影響で帝政移行し、大稲鶴帝国となった他、GHQから多少の民主化への働きかけがあったことから、都府県知事と皇帝によって構成される臣民最高議会を設置し、勅令は最高議会から出す事によって、皇帝の暴走を正当に選挙によって選ばれた都府県知事が止める事が可能になり、民主化が進んだという事にされた。尚、此れにより都府県知事選は一層激化した。

    高杉市

    国共内戦に於ける中国共産党の優勢が明らかになると、アメリカは稲鶴を東アジアに於ける友好国とする政策を打ち出した。其の流れで1950年に国際連合に稲鶴は加盟を果たして居る。同年に勃発した朝鮮戦争は稲鶴でも朝鮮特需を生み、戦後復興への足がかりとなった。同時に反体制派確保収容保護法が施行されて共産党が衰退して、親米・反共主義を掲げる有田光男首相を中心とした保守勢力が政権を独占し、戦前の政治・経済指導者も次々と公職追放から復帰した。其の儘稲鶴は資本主義陣営(西側諸国)の一角としての道を歩み始めたのだが、アメリカへの態度も巡り稲鶴共産党は民政共産党と稲鶴社会党に分裂した。其の後両党の競争意識からか支持獲得競争が激化すると、財界の強い要望を背景とし、保守勢力が合流し、保守民党が成立した。其の後共産勢力は弱体化し、保守民党は長い間政権を握り続けた。保守民党は箕面信郎による所得大増加計画に象徴される「経済中心路線」を取った。

    戦後、復興とともに1990年代までに目覚ましい経済発展を遂げ、稲鶴は世界有数の経済大国となった。1964年には経済協力開発機構(OECD)に加盟した。経済面である程度大きな影響を世界に与え、多くの開発途上国(発展途上国)から経済建設の先行モデルとされる様になった。1972年には高杉オリンピックが開催され、1980年には大稲鶴帝國博覧会が坂賀県で催された。交通網の整備も急速に進み、1972年にはスーパーエクスプレス米宝新線が開通、1973年には杉高高速道路、1975年には高時高速道路も開通した。マイカーブームの到来により、モータリゼーションを迎えると共に、トヨミ自動車や稲発自動車など国産自動車メーカーの品質が向上し、先進国への輸出もされる様になったが、大幅な貿易黒字を背景としてアメリカなどとの間に貿易摩擦も生じた。第一次産業の比率が下がり第二次産業や第三次産業の比率が拡大する産業構造の高度化が見られ、国際競争力を持てない農山漁村地域やエネルギー革命に直撃された産炭地域での急速な過疎化と、大規模製造業の存在と都市化による商業活動の急拡大が連動した都市圏の過密化も進行した。保守民党政権は全国基本開発計画や新産業拠点政策、高規格鉄道網整備で重工業拠点の全国展開を進め、経済格差の是正を目指した。農村部でも多くの工場が建設され、一方で公害問題の拡大が深刻となり、住民運動の拡大も見受けられた。一連の高度成長は1990年のバブル崩壊で終止符が打たれ、稲鶴経済は低成長期へと移行した。

    坂賀市

    21世紀にいたり、国内産業の空洞化など先進国特有の問題が生じて居る。1996年の米与・北与島嶼群大震災や2012年の郷地大震災などの巨大地震の発生は甚大な被害をもたらして居り、防災・減災行政の整備は目下緊急の課題となって居る。情報通信技術の急速な発展による携帯電話やインターネットの普及に伴うユビキタス社会の到来やグローバル化の進展は、新たな需要を創出すると共に、人々の生活に大きな変化を生じさせつつ有る。

    1991年から1992年にかけて史上初の下野を経験した後に与党へ返り咲き、1996年に首相となった大泉静男が進めた新自由主義政策により其の経済政策を大きく変えた保守民党は、2009年に民衆党に政権を奪われたが、2016年に飯田重明によって太融政会との連立政権を復活させた。飯田は自らの名前を冠したイイダノミクスによる経済再生を掲げて居るが、経済格差の拡大を指摘している国民も居り、政権の是非を巡る議論や対立が続いて居る。

    建国を巡る議論

    塩原河原。王権神授の舞台とされる。

    国家としての稲鶴、稲鶴の民族・文化は、有史以前の長い年月を経て段階的に形成されて来て居て、明確な建国の時期を示す記録は存在しない。建国記念日は、GHQ統治下からの帝政移行独立の日となって居る。

    『稲鶴書紀』神大紀に、カムヒロオオキミ(神大大王)の即位に関する記述が有り、古代以来、此れが稲鶴建国の画期と広く考えられて来た。朝栄4年11月13日(1878年12月13日)には、神大大王即位紀元が西暦紀元前580年に始まると定められ、此れを元年とする紀年法・「王紀」が朝栄5年1月1日(1879年1月1日)から使用された。戦後は、王紀よりも元号を用いた稲暦の方が主流となった。

    それ以外の紀年法では、西暦を用いることも多く、主に公文書等では稲暦とともに記されることも多い。

    1. 稲本都に在る特別区の集合体は地方自治法による地方公共団体ではない。