海華史

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執政府和教育技術省授權的教科書
此ノ圖書ハ普通教育法ニテ定ムル「自由・平等・博愛・平和ヲ希求シ國家・社會ノ形成スル者ニ必要タル資質ヲ備フル國民」ヲ育成スルト言フ目標ヲ達成セシメントシ教育指導方針ニ則ルルモノトシテ共和國執政府及ヒ教育技術省ニ認可セラルル教科用圖書ナリ(邦訳)



前夜時代

南京条約(1842年)から日清戦争(1894年)の大日本帝国の勝利にかけて,日欧米ら列強からの割譲・租借により清は多くの土地を実質的に手放すこととなった。

南京条約により開港された上海では自由で近代的な街となっており,多くの若者がそれらに対し遅れている清政府・皇帝に不信感を抱いていた。勿論光緒帝を中心とする清政府も近代化を進めるべく戊戌の変法(1898年)を進めていたが,保守派による妨害工作等が激しかった。西太后によって光緒帝が武力的に幽閉されると,上海人は近代化を求め一斉に武力蜂起し,日本,イギリス,アメリカ,フランス,ロシアの支持の下,「上海国」独立を宣言した(1900年8月16日)。

それに対し,山東など華北では反キリスト教・反欧米の「扶清滅洋」を掲げた義和団が武力蜂起していた。義和団は北京や天津を占拠すると紫禁城を占拠し清のトップである西太后及び皇族の殆どを処刑し,「大清共和国」の成立を宣言した(1901年)。この際、醇親王載灃福晋幼蘭(溥儀の父母)はたまたまイギリスなどのヨーロッパ各国を視察しており、運良く亡命した。

上海時代

上海国と大清共和国はそのまま武力衝突する(上清戦争,第一次志那内戦):1901年~1903年)。イギリスは上海国と英上同盟を締結すると,上清戦争に加勢した。アメリカ,フランス,ロシア,ドイツは中立を貫いた。日本は武力による援助は行わなかったが,上英軍への支援物資を送ったりなど,協力的であった。又,1902年には上海国と上日協約を締約している。

1903年には上英軍の勝利によってこの戦争は終結する。この際,山東条約が締結され,相互国家承認がなされた。イギリスは完膚なき迄に大清共和国を倒せる確証があったが,日露の満州を巡る対立があったため,開戦に備えて兵力を温存するために早期に講話したのである。

山東条約では現在の国土から台湾を足した区域が上海国の領土(但し山東はドイツの租借地,福建は日本の租借地)として合意する。

山東条約締結直後,上海国,日本,イギリスは英上同盟,上日協約,日英同盟を発展させ上英日三国同盟を締結する(1903年)。

1904年に日露戦争が開戦する。朝鮮,満州,遼東半島,日本海,黄海が舞台となる。上英日三国同盟が行使されはしなかったが,上海,イギリスは日本に多くの物資支援を行った。

1905年にはアメリカの仲介によりポーツマス条約が結ばれ日露戦争は終結する。

ポーツマス条約では,ロシアの満州権益の放棄,ロシアの日本への南樺太の割譲,ロシアの日本への遼東半島の租借権の寄与,日本の韓国の保護権の承認,沿海州での日本の漁業権,賠償請求権の放棄が締結された。セオドア・ルーズベルト(アメリカ)の講話仲介の条件として,満州での門戸開放があり,日本は満州からは軍隊を撤退することとなる。東清鉄道は1910年迄日本とアメリカが合弁経営し,その後大清共和国政府に移すことで合意した。

朝鮮(大韓帝国)では,高宗を初めとする支配者階級と親露派・独立派知識人が失脚し,一進会をはじめとする親日派知識人と親日派両班が政権を握るようになる。

大戦時代

第一次世界大戦

1907年には上海国は国号を「海華共和国」に変える事が決定される。そして政府上層部を選挙で決定するという現在の共和制に近い政治システムを構築する(それ迄は役員と呼ばれる上層部の人間が政策を決定していた)。1907年には海華共和国憲法を制定及び翌年施行。アジアで最初の共和国の成立である。

1910年には日韓合意により韓国を日本が併合する(日韓合邦)。これ以降韓国は朝鮮と呼称されるように。その後海華,イギリス(及び香港),日本(及び朝鮮)は東亜一大経済圏構想を宣言。その後,アメリカ(1913年),華夏(後に記載,1919年)も参加する。

1911年には天津で孫文の影響を受けた辛亥革命が起こる。大清共和国は白蓮教徒優遇政策をとっており,その他の宗教を信仰するものには不満の高まるものであったからである。孫文はその頃日本や海華共和国に亡命しつつ各地を転々としており,海華,日本は革命軍を支持。孫文は華夏民国の成立を宣言する(1912年)。尚,華夏民国を略称で記す際はで記す。海華(海華共和国そのもの)と海華(海華と華夏)の識別に困るためである。

華夏と清は戦争(内戦)に至る(夏清戦争,第二次志那内戦:1912年~)。又,大清共和国は華夏民国を「反乱軍」とし,「鎮圧する」としており,戦争である事を否定していた。

1914年,ヨーロッパではサラエボ事件によって第一次世界大戦が開戦する。ドイツ,オーストリア,オスマントルコ,ブルガリア等の中央同盟国は清と軍事同盟を締結し華夏に宣戦布告。それに対し,華夏は連合国に援助要請。海華は清及び中央同盟国に宣戦布告。日本は上英日三国同盟を根拠に海華軍に加わる。 ヨーロッパでも志那大陸でも総力戦となった。 1917年10月には清軍は掃討される。ドイツの租借していた山東へも海日連合軍は進駐し,志那大陸は安定する。
1917年3月,11月にはロシアで二月革命,十月革命が起こる。ソヴィエト政権の樹立である。
1918年11月にはヨーロッパでも戦争は休戦した。連合国側の勝利である。 ヨーロッパ側ではヴェルサイユ条約(1919年6月),志那大陸側では温城条約(1918年12月)が締結され,中央同盟国側は弱体化した。これらの講話条約後に成立した国際協調の流れをヴェルサイユ体制という。世界初の国際平和維持機構として国際連盟が成立する(1920年)。国際連盟の常任理事国はイギリス,日本,フランス,イタリアである。この時代は軍縮の動きも見られた。1921年から1922年にかけてのワシントン会議が開かれ,ワシントン海軍軍縮条約,米,英,仏,日の間で四か国条約が締結された。四か国条約の締結に至るまでは上英日三国同盟の解消をフランスが大きく要求していたが,海華の独立性を守るためと言う主張により,上英日三国同盟は維持された。米,英,蘭,伊,仏,白,葡,日,海,夏で志那大陸に関する十か国条約が締結された。ドイツの山東租借地は海華に返還され,日本の福建権益も海華の買収という形で返還された。大清帝国が領有していた西方地域(ウイグル、西藏)は長らく統治者がいなかったが、この条約で民族的独立の保障が与えられ、1923年にウイグル共和国、西藏共和国が成立した。

戦間期

当時の開発計画の対象地域。赤が第一次計画の対象地域でオレンジは第二次計画で追加された地域

1923年から海華は大幅な経済成長を迎える。東亜一大経済圏構想の成功の兆しを見せていた。1925年には東亜一大経済圏構想の発展として,上英日主導の下,東亜経済開発連携会議が開催される。米,英,蘭,伊,仏(帝),独,白,葡,日,海,夏が参加し,東亜経済開発連携協定を締結し,第一次東亜経済開発計画が発効する。特に海城は各国の融資の下,大きく発展していく。しかし,1929年10月,ニューヨーク株式取引所で株価が大暴落すると,あっという間に恐慌は世界に広がった(世界恐慌)。これは海華にも悪影響を大きく与え,経済ナショナリズムが各国で強まり,国際協調の気運は消え去った。アメリカがニューディール政策を推し進め,アメリカ,フランスが現旧植民地の経済圏から他国を閉め出しブロック経済を推進すると,植民地を持たない海華や日本は東亜経済開発連携協定を根拠に,志那大陸での自由貿易,経済開発の継続を求めたが,英,蘭を除き,殆んどの国が撤退した。上海の失業率は過去最高となる。1934年10月,海華首相に就任した杳香明(Yao Xiangming,ようこうめい)はルーズベルト大統領(米)の推し進めるニューディール政策に倣い,「更新经济」をスローガンとした以下の政策(経済再興政策)を発表する。

  1. 政府の市場積極的介入
  2. 銀行救済法の制定
  3. 金融緩和
  4. 銀証分離
  5. 海華預金保護公社の設立
  6. TVAに倣った公共事業による雇用の確保
  7. 市民職業訓練公社・事業による雇用の確保
  8. 事実上の不況カルテルの容認
  9. 生産調整法の制定

アメリカが保護貿易から自由貿易に方向を転換すると,再び志那大陸に参入し,第一次東亜経済開発計画は一応の持ち直しを見せる。 アメリカの要求の下,第一次東亜経済開発計画を見直し,新たに第二次東亜経済開発計画が米,英,仏,蘭,葡,日,海,夏間で発効された。第二次東亜経済開発計画では,志那大陸の他に,仏印や台湾,朝鮮なども対象となった。

第二次世界大戦

孫文の死後以降、華夏民国を主導していた華夏国民党はドイツ寄りのファシズム論とそれに対抗する反ファシズム論に二分されていた。独裁色の強い人物であった蔣介石はファシズム側の筆頭となり、一方で反ファシズム派はしばしば蔣介石と対立していた汪兆銘をトップに押し出した。更に第一次大戦後に結成された華夏共産党毛沢東を主導者として勢力を拡大していた。1939年8月に独ソ不可侵条約が締結されると国民党ファシズム派と共産党は徐々に融和のムードを見せるようになる。この時点で国民党は内部瓦解を起こしており、1939年11月に汪兆銘暗殺未遂事件が発生すると報復でファシズム派の幹部3名が殺害される。それを根拠に蔣介石は反ファシズム派を「粛清」する(Anti-fascism purge)。反ファシズム派はかつての師、孫文の拠り所の海華や日本に亡命した。そして1940年1月に海華都で「華夏民国亡命政府汪兆銘政権」を樹立を宣言した。海華や日本は彼らを支持し汪兆銘政権を継承国と見なした。しかしヨーロッパ世界の多くの国家は静観するのみであった。
亡命政府メンバーは国民党から離脱を表明し、民友党を結成した。以降国民党と記す際はファシズム派を指す。又華夏と言えば国民党を指すので注意。
国民党は「一国一華」を唱える。これは、かつての清が満州や新疆、西藏、蒙古など広域を支配したことに倣ったもので「中華大陸は一国のみで支配されるべきである」という意味である。言ってしまえば大ドイツ主義の如き「統一運動」、或いは単に領土拡大思想と言ってしまえるだろう。

勿論これの最終目標は海華との統一であったが、海華政府はこれに断固反対していた為、その矛先は中華大陸西部に向かうこととなる。

1989年のアジア情勢。オレンジは夏独蘇(枢軸国)側、青は海英仏(連合国)側。


連合国による分割統治。オレンジは海華、緑は日本、青はアメリカ、赤はソ連

ナチスドイツがポーランドに侵攻した1939年9月、華夏はソ連と中立条約、ドイツと相互援助条約を締結して西藏に侵攻する。1940年3月に西藏を降伏させると、同年新疆にも侵攻した。暹羅がこの新疆に宣戦布告すると、海華は華夏と暹羅に宣戦布告し新疆、西藏に加勢した。
1924年11月26日にモンゴル人民革命党による一党独裁として建国したモンゴル人民共和国は夏独蘇(枢軸国)寄りの立場を表明したが、戦局には加わらなかった。
日本は海英日三国同盟を根拠に海英仏(連合国)側として華夏とドイツに宣戦布告布告した。しかし、戦線の拡大を恐れてソ連には宣戦布告しなかった。ソ連側も戦局が欧州と極東に二分されることを望まなかった為、これは双方の利害が一致した。
華夏は当初こそ優勢であったものの、海華、日本に参戦され戦線が広がると徐々に劣勢を向かえた。1942年12月には新疆と西藏が解放された。アメリカによる宣戦布告(1943年9月、但しアメリカは華夏と交戦はしていない)がなされた2ヶ月後に、海日米によって博多宣言(同時に博多秘密協定が締結)が出されると、華夏はこれを受諾し、降伏した。(1943年11月17日)
博多秘密協定ではソ連の対夏参戦、海米日蘇による華夏の分割統治が定められた。実際にはソ連が華夏に参戦したのは11月1日であり、各国の負担・被害に対してソ連が得た利益は圧倒的に高かった。

戦後処理と冷戦体制

1945年4月にはドイツが降伏し、同年11月に国際連合が設置された。又フィリピンやヴィエトナムなど東南アジア諸国が独立し始めた。

華夏の分割統治の失効期限が1948年11月18日に訪れるが、海米日とソ連は5年の間に全く異なる経済・統治政策を取っていた為、統合交渉が完了しないまま、北の華夏社会主義人民共和国(北夏)と南の華夏民国(南夏)に分裂した。 国境線沿いでは互いの軍が監視しており、一触即発の状況であった。そして1956年、北夏は南夏に侵攻する。
これは実質的に海米日とソ連による代理戦争と言って差し支えないだろう。この戦争は泥沼化するうちに、南夏側が化学兵器を散布するなど、非人道的な手段を取るようになる。1960年には西側諸国で反戦運動が盛り上がり、1962年にはアメリカが撤退、翌年には海日も撤退し、南夏の首都である北京が陥落した。そして南夏政府は瓦解し降伏した。
華夏全域が北夏によって統一されると、東アジアの資本主義国は共産主義の影響を危惧し、海華、アメリカ、日本、新疆、西藏、フィリピン、ヴィエトナムによって東アジア条約機構(EATO、エアトー)が結成された。

アジアやアフリカでの独立運動とソ連の支援による赤化運動は頻繁に結びついた。日本やアメリカ、フランス、イギリス等は結果として植民地を手放す必要が出てきたとも言える。例えば1963年には、日本が台湾、朝鮮、南洋諸島に自治政府を置くことを確約した。
朝鮮では高麗祖国光復同盟(高盟)による独立運動が激化し、日本軍に従事していた朝鮮人はゲリラ攻撃などを行なった。自治政府の設置確約後も独立要求は続き、1968年には皇国連邦(天皇を盟主とした国家による連邦。英連邦に位置するもの)の構成国として独立、1970年には皇国連邦も離脱して完全に独立した(高麗民主共和国)。赤化運動の影響を大きく受けた高盟により独立した同地は共産主義に移行した。
台湾や南洋諸島も順次独立したが、その殆どは皇国連邦に残留した。
1973年には海英日三国同盟の失効を迎えたが、ソ連の影響を警戒して期限を延長した。

1948年に、上院と下院の二院制による海華共和国議会が発足すると、それに合わせて反共保守を掲げた海華共和党が発足した。共生党からの流れを組むものである。共和党はその発足から1978年まで、両院で過半数を保ち続けた。
一方野党第一党は革新中道左派である民心党が