金沢=神戸連邦公国
これは愛と妄想と現実の狭間にある架空の国家なんです。 だから冗談が理解できない馬とか受験生とか鹿は閲覧を控えた方が良いと思うわ。 真面目な話すると、このWIki嬢の情報は殆どフィクションであり、実在の人物・組織とは関係ありません。ただ、元ネタになってる可能性はありますが... (このWikiについて) |
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金沢=神戸連邦公国とは1730年に大日本君主国(現在の大日本中央民主共和国)から独立した国家で、大日本連合国の構成国の一つ。憲法に規定されている正式名称は「新暦一七三〇年五月の豊臣・前田合意によって大日本君主国からの独立を表明した二十一の領邦による広域的議会君主制連邦」。
- 金沢=神戸連邦公国
- 新暦一七三〇年五月の豊臣・前田合意によって大日本君主国からの独立を表明した二十一の領邦による広域的議会君主制連邦[1]
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(国旗) (国章) - 国の標語:忠皇義民 天地照覽 國體護持
「覽」「國」「體」は旧字体が正式であるがしばしば新字体で代用される。また近年では新字体表記を標準化するべきという意見も高まっている。 - 国歌:君が代
社会主義国家を含む全ての日本人系国家で国歌(に相当する歌)として位置づけられる古歌。 -
公用語 日本語 首都 金沢公領金澤府
神戸公領三宮府
(二重首都制)最大の都市 大坂直轄侯領 - 政府
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第九十七代連邦主公
金沢公
(第21代加賀前田家当主)前田 咲利
まえだ さきとし
(洋:Stanley Nikolaus)内務卿府長官
連邦政府総首相本多 修聡
ほんだ すけとき
(洋:Michael Aufrecht)第九十七代連邦副公
神戸公
(第23代神戸豊臣家当主)豊臣 秀也
とよとみ ひでなり
(洋:George Nick Evans) - 面積
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総計 37,000km²
面積は概算値。[2]水面積率 (未公表) - 人口
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総計 24,510,820人
「2018年次連邦国勢調査」(連邦出版局情報開示センター著)より抜粋人口密度 662.45[3]人/km² - GDP(自国通貨表示)
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合計 78兆1,429億銭 - GDP(MER)
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合計 xxx,xxxドル - GDP (PPP)
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合計 1兆3,717億4,804万ドル 1人あたり 55,965ドル - 建国
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神話上の大日本建国 基歴[4] 前660年2月11日 天皇体制の狭義的確立
(継体天皇の即位)基歴 507年3月3日 天将公候伯制の確立
(大日本君主国成立)基歴 1603年8月21日 連邦公国の建国 基歴 1730年5月3日 大日本連合国(UNGN)の成立 基暦 1840年12月5日
通貨 銭 (FNJ)
正式名称は「連邦日本銭(Ƒ)]時間帯 UTC +15(DST:
なし)
(自然時より約6時間早い)ISO 3166-1 KK /KKF ccTLD .kk - 面積、人口、GDP等は南阪社会主義革命政府による占領地を含む。
国号
国名の「新暦一七三〇年五月の豊臣・前田合意によって大日本君主国からの独立を表明した二十一の領邦による広域的議会君主制連邦」は1920年公布の『改正連邦公國典範』、正式な縮約国名である「金沢=神戸連邦公国」(ないし「神戸=金沢連邦公国」)は1886年公布の『國號及國旗に関する勅令』で定められたものである。
しかしこれらに定められている国号は憲法ないし勅令の発布によって定着したものであり、それ以前は単に「連邦公国」と呼称されていた。この呼称は国号としては非公式であるが、実際には官民を問わず現在でも使用されている。
また建国当初は「大日本新國」「大日本之忠皇なる諸爵による合議國」「大日本忠皇諸爵合議國」と呼称されていた。
政党
歴史
本項では近代化が開始する大坂時代以降の歴史について解説する。それ以前の歴史については金沢=神戸連邦公国/歴史を参照のこと。 大日本連合国検定済教科書(国史科/中学5年)『連邦公国の大日本史』より作成[5]
大坂時代
概説
織田信長は室町将軍足利義昭を放逐すると、室町幕府に代わる畿内政権を樹立した。本能寺の乱の後になると機内政権による天下統一の事業は織田信長と豊臣秀吉が合同して行われる形となり、今日我々が呼称するところに於ける大坂政府が成立した。
秀吉は、信長の畿内政権を母体として東北から九州に至る地域を平定し、統一事業を完了した。秀吉も中世的支配体系/支配勢力の排除・抑制に努めた。刀狩や検地の実施を通し、兵農分離を進めて荘園公領制・職の体系を消滅させたのである。信長と秀吉による天下統一により、政治や経済の安定がもたらされると大名・武士を中心として豪壮な桃山文化が栄えた。
また信長は超急進的な西洋化を大々的に行った。主な施策にキリスト教の公認、極東大司教[6]の設置、神基習合政策[7]、大日本海運会社の設立がある。
一連の西洋化政策は朝廷や僧兵勢力などに多くの敵を作ったが、信長と秀吉率いる大坂政府はこれを殆ど武力によって制圧した。
またこの時秀吉は朝鮮への出兵、属国(ないし植民地)化を信長に提言していたが、信長の死によって結局破談となった。
概略史表
年号 (基歴) |
場所 | 内容 |
---|---|---|
1573/7 | 京都 | 織田信長、室町幕府の将軍足利義昭を京都より追放 |
同 | 畿内一円 | 信長とその家臣豊臣秀吉による畿内政権(大坂政府)の成立 |
1582/6 | 京都 | 明智光秀による謀叛を鎮圧(本能寺の乱) |
1591/9 | 列島全域 | 天下統一を達成 |
1591/10 | 大坂政府 | 八面大守護職の策定。地方の統治を織田家と豊臣家を含む有力八大名に委任。(別表) 大日本の分領統治制の切欠となった。 |
同 | 大坂政府 | 『南蛮交易推奨の令』 を出し西欧人との交易を大幅に拡大。信長は臣下に西洋学問の摂取を呼びかけた。 |
1592/4 | 朝廷 | 大坂政府が後陽成天皇を懐柔し『蛮教寛容の詔旨』を発表させる。 大坂政府はこれを基督教公認の足掛かりとして西欧人との交易を拡大させた。 |
1592/5 | 大坂政府 | 『基督教信仰容認令』を発令。実質的に基督教を公認し、朝廷の反発を買った。 |
1592/8 | 朝廷 | 公家の貴族ら[8]がが結託して兵力を徴集し、大坂城を襲撃する(文禄の乱)。 徴集された兵士の低い指揮により約六日で完全に鎮圧され、計17名の貴族らが遠流等の処罰を受ける。 この事件により大坂政府による朝廷支配が確定した。 |
1594/4 | ローマ教皇領 | ローマ教皇クレメンス8世による極東大司教区設置の許可。 これに先立ち大坂政府はイエズス会士ルイス・フロイスを通じ『大日本における基督教の振興を嘆願する親書』をローマ教皇に宛てて送っていた。 これにより大坂政府は西洋諸国との対等化の実現を図った。 |
1595/5 | 大坂政府 | 極東大司教区の設置許可を受け政仁親王(後の後水尾天皇)を初代極東大司教に任命する[9]。 これ以降も大司教は親王から任命され、これによって大坂政府は、同一の臣下を持たせることによる西洋人視点に於ける"天皇とローマ教皇の同格化"を図った。 |
1602/12 | 堺 | 堺に大日本海運会社を設立。中華や朝鮮、東南アジアとの"西洋式貿易"を目指した。 |
(別表) 八面大守護職の一覧
(括弧)囲みの国名は当時と現在で統治家系が異なるもの。
職名 | 大名家 | 対応する現国名 |
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尾張大守護職 | 織田家 | 大日本中央共和国 |
京坂大守護職 | 豊臣家 | 金沢=神戸連邦公国<神戸公国> |
北陸大守護職 | 前田家 | 金沢=神戸連邦公国<金沢公国> |
坂東大守護職 | 徳川家 | 大日本東旭共和国 |
近西大守護職 | 毛利家 | 廣島民主公國 |
四国大守護職 | 長宗我部家 | (大日本南和連邦共和国) |
陸奥大守護職 | 上杉家 | (消滅) |
九州大守護職 | 小早川家 | (関門聯邦帝國) |
名護屋時代
概説
概略史表
年号 (基暦) |
場所 | 内容 |
---|---|---|
1603/8 | 朝廷 | 信長の跡継ぎである織田信忠、征夷大将軍に任命される。 |
同 | 大坂政府 | 信忠、『統制整理令』を発布。 これにより「天皇の臣下たる国王、国王の臣下たる八面公爵、公爵の臣下たる侯伯」と呼ばれる西洋の統治機構をモデルとした新しい支配体制が確立した。 今日ではこの体制を「天将公侯伯制」と呼称する。 |
1603/10 | 尾張王府 | 名護屋へ遷都。尾張王府を設置。すぐさま『大日本新秩序制定の勅令』を発布し大日本王国の建国を宣言した。 しかし坂東公爵徳川氏など一部の臣下からは容認されなかった。 また今日では大日本王国のことを大日本君主国と呼ぶことが多い。 |
1613/5 | 江戸 | 坂東公爵徳川秀忠、陸奥公爵上杉氏の討伐を指示。東日本戦争の開戦。 王府は徳川勢を逆賊として上杉勢へ加勢するも苦戦を強いられる。 |
1617/11 | 白河 | 東日本戦争の講話協定が白河で結ばれる。 結果として王国軍が敗北を喫し、秀忠は陸奥を併合し東旭帝国を建国。 この戦争により王府の権限は出だしよりぐらつく結果となった。 |