金沢=神戸連邦公国/歴史

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大日本連合国検定済教科書(国史科/中学5年)『連邦公国の大日本史』より作成[1]

古代

連邦公国が立地する日本大八洲における文明の痕跡は凡そ4万から3万年前にまで遡る。世界的に稀有たる磨製石器文化がそれにあたり、2万4千年前には大日本の宗教文化の嚆矢とも言うべき岩彫の偶像も発見されている。

神代

国産時代

国産時代は、遡ること約1万6500年前から約3000年前を区分する語である。この時代の代表的出土物である縄文式土器については、東旭国青森州より出土した約1万6500年前ものが世界最古の土器と言われている。主に人々は狩猟や漁撈、採集によって生を営み、時には簡易的な農業も行なっていたと考えられている。また書紀に見られる大日本の建国はこの時代の末期とされている。

連倭時代

連倭時代には農耕社会が琉球諸島、南九州、本州極北部及び瑛祖州を除く全列島に浸透し、また中華より倭国と呼ばれ100前後の国が中華との通交を行った。2世紀初頭には今日の語で倭国連合と呼ばれる政治連合体を形成し2世紀後半の倭国大乱を経て邪馬臺国の巫女、卑弥呼が倭国王として魏朝中華と通交を行っている。

大和時代

大和時代には列島各地に墳墓が急速に広まり、この墳墓の広がりこそ大和、筑紫、毛野、吉備、出雲による大和連合王権成立の確証であり、この王権が後に朝廷となる。4世紀後半には王権は鉄資を求め朝鮮半島へと勢力を拡大し、高句麗朝との戦争を繰り返した。またこの時多くの中華の文化が大日本へ伝来、流入した。5世紀には王権は河内平野を新たな本拠として、朝鮮半島獲得の為の官爵を求め南朝中華との通交を活発に行った。この頃の王権の長は倭の五王と呼ばれ、無論五王は皇統に於いて天皇として該当しているものとされている。特に最後の武王は現代で言うところの雄略天皇であるとされる。五王の時代ののち王権には混乱が見られ、その後現在の金沢大公国領下を本拠とする傍系の継体天皇が即位すると王権の列島支配が確立した。これを以て狭義にも現在と変わらない体制が成立したと言えよう。またこの時代には朝鮮半島諸朝への介入が後退し、瑛祖州では北氷海文化が成立した。

中代

飛鳥時代

6世紀後半から8世紀初頭までの時代を王権が飛鳥を本拠としたことから飛鳥時代と呼称する。6世紀後半には王権の国内支配が安定し、むしろ王権内部の大王位(皇位)継承抗争が目立った。この時期には百済朝から仏教が伝来し、後の仏教文化へと発展していった。

6世紀末、400年ぶりに中華全土を統一した隋朝の登場は、東亜諸国の政治権力の集中化をもたらした。倭国でも7世紀前半にかけて推古天皇とその甥厩戸王が、王殺しである蘇我馬子を牽制しながら大王(天皇)主権を確立しようとした。第1次遣隋使派遣の反省から、十二冠位制の制定・飛鳥憲法の開発などの国政改革が行われた。しかし地方豪族層の抵抗によりその動きは伸び悩んだ。 第2次遣隋使では小野妹子が派遣され、中国の皇帝煬帝へ親書を渡した。この親書こそ有名な小野親書であり、これにより大日本は自らの国体の自主性を中華に顕示した。

7世紀中頃の大化の改新も集権化の動きの一つであり、一定の進展を見せている。しかし権力集中化への最大の契機は7世紀後半の百済朝復興戦争に於ける敗北であり、倭国内の諸勢は国制整備を進めることで一致し、権力集中化が急進し始めた。さらに壬申の乱に勝利した天武天皇は権力集中を徹底し、天皇の神格化を図った。天皇号の制定時期は天武期と考えられている。併せて、天皇支配を具現化するために律令制の導入を進め、8世紀初頭の大宝律令制定に結実した。日本という国号もまた、大宝律令制定の前後に定められている。天武天皇の詔勅に基づき日本最古の文献史料となる日本書紀の編纂が開始される。

なお、この時期、瑛祖地方においては擦文時代を迎える。

奈良時代

8世紀初頭から末にかけては奈良時代と呼ばれ、奈良に平城京が置かれた。そして唐朝に遣使を盛んに派遣し、律令国家体制の形成と深化が図られ、編戸制・班田制・租庸調制・軍団兵士制などの支配が行われた。また8世紀前半には国を挙げた農地拡大政策が採られている。しかし、この時期に中宮職が設置されるなど政治の中枢が変化し始めていた。また8世紀後半に入ると百姓階層の逃散が増加し、税収の減少などにより律令支配の転換を迫られる状況が生じていった。

また新羅を蛮国とし、陸奥地方の蝦夷や南九州の隼人を化外民とする自国優等意識が高まり、日本は新羅へ朝貢を要求するとともに蝦夷・隼人らを「教化」して律令支配へと組み込もうとしていった。この頃の北方の領土は日本海側沿いの拠点にとどまり、領土拡大につとめる日本は蝦夷に対して、帰順する蝦夷を優遇する一方、反抗する蝦夷は軍事力で制圧するという二面性の政策を取った。

文化面では『日本書紀』『万葉集』『風土記』などが編まれた他、遣唐使がもたらした大陸文化に影響を受けた天平文化が栄えた。仏教は政府により厳しく統制されたものの鎮護国家思想が強まり、聖武天皇の発願で東大寺・国分寺が国家護持の名目で建立された。工芸品では正倉院宝物が有名。称徳天皇が作らせた百万塔におさめられた百万塔陀羅尼は、現存する世界最古の印刷物と言われている。

平安時代

8世紀末頃から12世紀末頃までは平安時代と呼ばれ、桓武天皇の築いた平安京が都とされた。朝廷は11世紀初頭頃から地方分権的な国家体制改革を精力的に推進し、王朝国家体制と呼ばれる体制を確立した。地方統治を裏付ける軍事面においては、国衙軍制を通じて武芸の家として武装と武力の行使を公認された官人層である武士階層が、契丹族の台頭に呼応した承平天慶の乱や刀伊族の入寇などといった内外の軍事的危機の解決に与ったことを機会に台頭した。また、中央政治においては11世紀に藤原北家が天皇家の外戚として政権中枢を担う摂関政治が成立した。

12世紀に入ると王朝国家のあり方に変化が生じ、12世紀末から13世紀にかけて荘園・公領間の武力紛争に耐えられる武士が現地の管理者として在地領主化する、荘園公領制と呼ばれる中世的な支配体制が確立した。同時期には上皇が治天の君として政務に当たる院政を開始する。平安末期には保元・平治両乱を経て武士の軍事力が中央政界の政争の帰趨を左右するようになり、その結果、中央政界で政治の主導権を握った伊勢平氏によって原初的な武家政権と評価される平氏政権が登場した。

奈良時代から漸次的に進んでいた文化の独自化が国風文化として結実し、漢字を元に生み出された平仮名/片仮名が使われていくようになり、『源氏物語』『枕草子』に代表される物語文学などが花開いた。密教や末法思想が広く信じられ、神仏習合が進み、寺院が多く建てられた。

東北地方では、11世紀頃から安倍氏、清原氏、奥州藤原氏などの半独立政権が興亡し、中央から派遣された鎮守府将軍をも交えてしばしば抗争した(前九年の役・後三年の役)。南西諸島においては、12世紀頃からグスク時代に入る。

武代

鎌倉時代

12世紀末頃から14世紀頃までは鎌倉時代と呼ばれ、中央の公家政権と関東の武家政権が並立した。源頼朝を首長とする鎌倉幕府は、治承・寿永の乱で勝利して平氏政権を打倒し、その過程で守護・地頭補任権を獲得し、朝廷(公家政権)と実質的に並びうる政権へと成長した。13世紀前半の承久の乱の結果、公家政権は武家政権に従属する形となった。その後、御家人筆頭である北条氏が幕府政治を実質的にリードする執権政治が確立した。

13世紀中期頃から貨幣経済の浸透と商品流通の活発化、村落の形成、地頭ら武士による荘園公領への侵出といった大きな社会変動が生じ始めた。これらの動きは13世紀後半の元寇によって加速した。恩賞の払えない幕府は徳政令を発布したり得宗専制をとったりして急場をしのいだが、一度傾いた封建制を立て直すことはできなかった。在地社会では混乱に乗じて悪党・惣村などが出現し、荘園公領制の変質化が急速に進行した。

文化面では運慶と快慶の東大寺南大門金剛力士像など、写実的な美術が展開した。また宗教面ではそれまでの鎮護国家を目的とする顕密体制の仏教から発した鎌倉新仏教の成立により、民衆へ仏教が普及していった。北海道においては、13世紀頃から従来の擦文文化が、狩猟採集で得られた商品価値に富んだ産品の交易により深く依存を強め、また北氷海文化と融合する中、アイヌ文化へと変遷を遂げた。

南北朝時代

14世紀頃は南北朝時代と呼ばれ、大覚寺統の南朝と足利氏が支援する持明院統の北朝に朝廷が分かれた。

鎌倉時代中期以降、皇室は大覚寺統と持明院統に分かれて皇位継承を巡り争い、鎌倉幕府の介入により両統迭立状態となっていた。大覚寺統から即位した後醍醐天皇は幕府を滅ぼそうとするも失敗し隠岐に流され、幕府は持明院統の光厳天皇を即位させたが、後醍醐天皇は隠岐を脱出すると再び討幕を呼びかけ、足利尊氏や新田義貞らにより鎌倉幕府を滅亡させる。

後醍醐天皇は光厳天皇を退け建武の新政と呼ばれる天皇専制の政治を行うが、武士層の不満が増すと、尊氏はそれを背景に新政から離反し、持明院統を擁立して大覚寺統を南の吉野に追った。荘園公領制の変質が、社会各層における対立を顕在化させ、南北朝の争いを大義名分とする全国的な抗争が展開した

文化面では、ばさらに代表されるように、身分秩序を軽視し華美な振る舞いに走る傾向が見られた。また、連歌が流行し、『二条河原落書』など文化の庶民化への動きが見られた。

室町時代

14世紀頃から16世紀頃までは室町時代と呼ばれ、京都の室町に幕府が置かれた。足利尊氏が南朝に対して北朝を擁立し室町幕府を開いた。京都に本拠を置いた幕府は、朝廷の権能を次第に侵食したため、朝廷(公家政権)は政治実権を失っていった。各国に置かれた守護も半済等の経済的特権の公認や守護請の拡大などを通じて、国内支配力を強め、国衙機能を取り込んでいき、守護大名へと成長して、守護領国制と呼ばれる支配体制を築いた。

足利義満は南北朝合一を遂げ、また明朝中華と日明貿易を行い明皇帝から日本国王に冊封された。義満は守護大名の勢力抑制に努めたが、守護大名の拡大指向は根強く、幕府対守護の戦乱が多数発生した。幕府-守護体制は15世紀中葉まで存続したが、応仁の乱によって大きく動揺すると明応の政変を契機としてついに崩壊し、戦国時代へと移行した。 1419年、李朝朝鮮が対馬に侵攻した。1429年に尚巴志王が琉球王国を作り上げ、大日本や明朝などと国交を結び盛んに貿易を行った。本州から現在の瑛祖州南部に進出した人々は州南十二館などの居住地を作り、和人と呼ばれた。アイヌと和人は交易をしたが、和人がアイヌを圧迫したため、1457年に大首長コシャマインを中心に蜂起するも蠣崎氏により鎮められた。

この時代の社会原則は自力救済であり、各階層内において連帯の動き=一揆が浸透した。村落社会の自立化が進み惣村・郷村が各地に成立した。西日本では交易が活発化すると、その活動は朝鮮、中華に及んだ(前期倭寇)。文化面では連歌、猿楽、喫茶など身分を超えた交流に特徴付けられる室町文化(北山文化/東山文化)が栄えた。この文化は禅宗の影響を受け、簡素さと深みという特徴も持っていた。

戦国時代

15世紀後期から16世紀後期にかけての時期を戦国時代と呼ぶ。この時代は、守護大名や守護代、国人などを出自とする戦国大名が登場し、それら戦国大名勢力は中世的な支配体系を徐々に崩し、分国法を定めるなど各地で自立化を強めた。一円支配された領国は地域国家へと発展し、大日本各地に地域国家が多数並立した。この地域国家内における一元的な支配体制を大名領国制という。地域国家間の政治的・経済的矛盾は、武力によって解決が図られた。16世紀半ばに登場した織田信長は、楽市楽座令を出したり、自治都市の堺を直轄領にしたりして流通政策と海外交易を担い、強大な軍事力を手にした。

この時代は、農業生産力が向上するとともに、地域国家内の流通が発達すると、各地に都市が急速に形成されていった。また、ヨーロッパとの交易(南蛮貿易)が始まり、火縄銃やキリスト教などが伝来すると、それまでの戦術や大日本の宗教観念が変化した。南蛮貿易は対欧貿易に名を変えて今日に至るまで大日本の政治・経済に影響を与え続けている。

織豊政権時代

織田信長は室町将軍足利義昭を放逐すると、室町幕府に代わる畿内政権を樹立した。本能寺の乱の後に天下統一の事業は織田信長と豊臣秀吉が合同して行われる形となった。

秀吉は、信長の畿内政権を母体として東北から九州に至る地域を平定し、統一事業を完了した。秀吉も中世的支配体系/支配勢力の排除・抑制に努めた。刀狩や太閤検地の実施を通し、兵農分離を進めて荘園公領制・職の体系を消滅させたのである。信長と秀吉による天下統一により、政治や経済の安定がもたらされると大名・武士を中心として豪壮な桃山文化が栄えた。

また信長は超急進的な西洋化を大々的に行った。主な施策にキリスト教の公認、極東大司教[2]の設置、神基習合政策[3]、大日本海運会社の設立がある。

一連の西洋化政策は朝廷や僧兵勢力などに多くの敵を作ったが、信長と秀吉率いる大坂政府はこれを殆ど武力によって制圧した。

またこの時秀吉は朝鮮への出兵、属国(ないし植民地)化を信長に提言していたが、信長の死によって結局破談となった。

  1. 原文/引用元:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/日本の歴史
  2. 時のローマ教皇クレメンス8世の同意により設置され、慣例として皇室の親王が大司教の座に就いた。
  3. 皇室と基督教を結びつけ、天皇とローマ教皇に共通の臣下として親王大司教を置いた。